九条家
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^ 鷹司教平の子。
^ 母は道房の女待姫。
^ 鷹司政通の子。
^ 岡山藩筆頭家老・伊木忠恭の養子になるが、離籍し殿家として独立。
^ 公式上は幸経の長男。
^ 一条実輝の養子になるが実家に戻り分家。妻は九条武子
^ 松尾善徳の子。

家礼

源季長は兼実に家司として仕え、その系統は九条家諸大夫信濃小路家となった[6]。江戸時代には信濃小路家のほか徳小路家・石井家・朝山家・宇郷家・芝家・島田家・矢野家・日夏家が諸大夫として仕えている[24]

橘氏は代々摂関家家司として仕えていたが、橘以政以降九条家に仕えている[6]
九条邸跡京都御苑の九条邸跡に現存する九条池。奥中央に見えるのは拾翠亭(しゅうすいてい) (2014年2月22日撮影)

近世における九条邸は慶長9年に九条幸家と完子の婚儀を期に造営されたものに始まる[25][26]。翌慶長10年(1605年)には御所の東南方に移転し、幸家の屋敷と父兼孝の隠居屋敷が並んで造営されていた[26][27]。またこの後、院御所西に「下屋敷」が造営され、これまでの屋敷は上屋敷とよばれていたが、万治4年(1661年)の火災で上屋敷は焼失してしまう[28]寛文13年(1673年)の火災で下屋敷も焼失し、九条家は再建された上屋敷を住居としていた[28]宝永5年(1708年)に上屋敷は焼失し、宝永6年(1709年)に本宅屋敷として再建されたものが幕末維新期まで残った[28]

明治10年(1877年)には政府によって九条家の敷地は買い上げられた。母屋などの主要な建物は、東京の九条邸に移築された。京都御苑南西部には庭園部分のみが整備されて残っている。九条池と呼ばれる庭園の池の中島には鎮守社だった厳島神社が、また池畔には拾翠亭と呼ばれる瀟洒な茶室が、いずれも現存している。昭和9年(1934年)には京都から移築されていた当主の居室が東京国立博物館に寄贈され、「九条館」と命名された。
九条家の財産
封建時代の所領

摂関家領は、鎌倉時代初期に当時の九条兼実と近衛基通の政治的対立も絡んで九条家と近衛家の間で分立した。九条家領の中心になったのは兼実の妹皇嘉門院聖子1180年(治承4年)に兼実の子良通に譲った所領であり、最勝金剛院領11個所、九条領34個所、近江国寄人和泉国摂津国近江国の大番舎人などがある[4]

1204年(元久元年)に兼実は惣処分状を作成して所領の保全を図り、総計60か所に及ぶ荘園が記載されている[4]

1250年(建長2年)に兼実の孫九条道家が所領の確保のために作成した惣処分状では、その総計は112個所に及んでいる[4]。この際に一条実経に譲与された所領は、のちに一条家領の基礎となり、九条忠家に譲与された所領は、のちに女子一期分を吸収して九条家領の中心となった[4]

しかし鎌倉時代末から南北朝時代の動乱の中で九条家領は徐々に衰退していき、1396年(応永3年)時にはわずか16個所が当知行として残っているにすぎなかった[4]戦国時代末期の家領目録では21か所を載せているものの、それらはすでに形骸化したものだった[4]

安土桃山時代織田信長や豊臣秀吉の天下統一下で石高知行制が成立した後には九条家も織田氏や豊臣氏から知行地を与えられ、江戸時代に入ると徳川氏から与えられた。江戸時代の所領ははじめ2000石、のちに3000石だった[4]
幕末の領地

国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』より算出した幕末期の九条家領は以下の通り。(7村・3,052石余)

山城国愛宕郡のうち - 3村

一乗寺村のうち - 22石余

松ヶ崎村のうち - 252石余

静原村のうち - 101石余


山城国乙訓郡のうち - 1村

円明寺村のうち - 712石余


山城国紀伊郡のうち - 2村

深草村のうち - 623石余

東九条村のうち - 340石


摂津国豊島郡のうち - 1村

池田村のうち - 1,000石


明治以降の財産

1876年(明治9年)に旧来の家禄に代えて発行された金禄公債の額は6万1071円で旧公家の華族の中では三条家(6万5000円)と岩倉家(6万2298円)に次ぐ第3位の額だが、旧公家華族の公債額は旧大名華族のそれとは天と地ほどの格差があった(旧大名華族トップの島津家は132万2845円)[29]
庶流

兼実の子である良輔の系統を九条家とは別の八条家として扱うべきとする説がある。これは兼実と対立関係にあった八条院女房三位局(高階盛章の娘・以仁王の室)[注釈 2]との間に出来た良輔は、本来ならば捨て置くべき処を三位局の庇護者であった八条院の猶子として引き取られて立身した(九条家や兼実の意向ではない)経緯による考え方である[30]

江戸時代には2度に渡り松殿家を再興しているが、いずれも一代限りとなっている[19]。明治時代には鶴殿家松園家が分家している。

武家では江戸時代に大名となり、明治に至って華族となった大岡氏が九条家の後裔を称している。大岡氏の家伝では九条教実の後裔忠教の孫である大岡忠勝松平広忠に仕え、家祖となったとしている[31]
脚注[脚注の使い方]^ 豊臣秀吉の甥豊臣秀勝崇源院の娘。秀吉の息子豊臣秀頼の叔母である崇源院はこの時期徳川秀忠の夫人となっている。また伯母で秀頼の母淀殿は完子を猶子として育て、完子の結婚では嫁入り道具を送っただけでなく屋敷(九条邸)まで建てている[14]
^ 八条院は猶子であった以仁王と三位局の間の娘である三条姫宮に所領を譲ろうとしていたが、兼実は以仁王が謀反人であることを理由に姫宮を排除して自分の外孫の昇子内親王に継承させようとしていた。つまり、良輔は排除対象である三条姫宮の異父弟にあたることになる(良輔誕生の影響か、最終的に兼実は三条姫宮の一期分を認めざるを得なくなる)。
^ a b c d e 太田 1934, p. 2081.


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