なお古代九州には7世紀末までヤマト政権とは独立した王権があったとする説(九州王朝説)もある。 中世には、博多が自治都市として栄える。摂津国の渡辺氏の分流の松浦氏の一族や、藤原純友の乱において勲功のあった大蔵春実、橘公頼などの子孫が土着し、在地の豪族となる。 平家の勢力圏であり、九州の武家は平家方に属したが、治承・寿永の乱(源平合戦)の趨勢から菊池氏や松浦氏をはじめ諸氏は源氏方に寝返り、鎌倉幕府の鎮西御家人となり地頭に補任される。 しかし、九州の武家は親平家方であったため、源頼朝は「戦後処理」として、九州の在地武家を抑えこむため、新しく東国御家人の少弐氏や島津氏、大友氏を守護として九州に送り、これらの「下り衆」が勢力を強め、菊池氏や松浦氏、秋月氏などの在地の武家を抑え、その後の九州の武家の中枢となる。 鎌倉時代には2度に渡る元寇があり、少弐氏など北九州の武士を中心に撃退した後に、それまでの異国警固番役に代わり鎮西探題が設置される。 元弘元年(1331年)に京都において後醍醐天皇が元弘の変で蜂起すると、少弐氏や大友氏などが鎮西探題の北条英時を攻撃する。鎌倉幕府が滅亡後に後醍醐天皇の建武の新政が成立し、後に足利尊氏は新政から離反し、尊氏は京都での戦いに敗れて九州へ逃れる。少弐氏らは尊氏を迎え、宮方の菊池武敏らを多々良浜の戦いで破る。尊氏は九州で体勢を整えた後に一色範氏・仁木義長らを足利勢力として残し、京都に上り、室町幕府を開く。 後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れて南朝を開き、宮方の武将に自身の皇子を奉じさせて各地で南朝勢力の集結を呼びかけ、九州には懐良親王が宇都宮貞泰に守られて派遣され、菊池氏に奉じられる。懐良親王は明から倭寇鎮圧の要請のために派遣された使者を迎え、「日本国王」として冊封されて明の権威を背景に勢力を広める。また、足利家では観応の擾乱と呼ばれる内紛が発生し、尊氏の側室の子である足利直冬が九州で尊氏と敵対して戦う。 中央では南朝勢力は衰微し、幼い3代将軍足利義満を補佐した細川頼之が今川貞世を九州の南朝勢力討伐のために派遣すると懐良親王も博多、大宰府を追われ、貞世の働きで九州の南朝勢力は鎮圧される。貞世は九州で独自の勢力を築いたため義満に排除され、その後は大内氏が台頭する。寧波の乱で細川氏を破った大内氏と博多の商人により大陸との貿易を独占する。 応仁の乱以後は少弐氏は衰退し、戦国時代には大友氏、大内氏、島津氏などが戦国大名に成長する。天文12年(1543年)、種子島にポルトガル人により日本に初めて鉄砲が伝わる。南蛮貿易の中心地となり、大友義鎮、有馬晴信、大村純忠などのキリシタン大名も生まれる。 主要な戦国大名 近世には豊臣秀吉の九州征伐を経て豊臣政権下に組み込まれ、北九州は秀吉による朝鮮出兵である文禄・慶長の役の拠点であった。 江戸時代には幕藩体制の確立に伴い薩摩藩、佐賀藩、福岡藩、熊本藩、対馬藩をはじめとする諸藩が成立する。江戸時代の鎖国体制下では平戸・出島などが対外交易の入り口となり、長崎奉行所がおかれた。 江戸前期には島原の乱が発生する。 幕末には薩摩藩などが明治維新を主導する雄藩となった。 「九国」、九州および「九州地方」の地名に関連した年表。
吉野ヶ里遺跡
海人族
熊襲・隼人
防人
中世
城井氏(豊前国)
大友氏(豊後国)
少弐氏(筑前国、肥前国)
宗像氏(筑前国)
立花氏(筑前国、筑後国)
秋月氏(筑前国)
蒲池氏(筑後国)
龍造寺氏(肥前国)
松浦氏(肥前国)
大村氏(肥前国)
有馬氏(肥前国)
宗氏(対馬国)
菊池氏(肥後国)
阿蘇氏(肥後国)
隈部氏(肥後国)
名和氏(肥後国)
相良氏(肥後国)
伊東氏(日向国)
肝付氏(大隅国)
島津氏(薩摩国)
近世
近代
八幡製鉄所、筑豊炭鉱、三池炭鉱、佐世保鎮守府、長崎造船所
九州帝国大学、熊本洋学校
年表
7世紀ごろ - 掖玖・夜勾、海見、多禰島、度感などが史記に見える[18][注 9]
7世紀中葉 - 律令制の成立
大宝2年(702年)ごろ - 隼人の反乱を契機として、唱更国(のちの薩摩国)が日向国から分立される形で設置[19]。
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