『三国史記』では「420年3月に先王の死去に伴い即位し、427年12月に死去した」と伝えるのみで、具体的な治績内容は記載されていない。しかし、『梁書』、汲古閣本
『宋書』、および、『日本書紀』に引用された『百済記』、『百済新撰』、『百済本記』の記事を比較する事で治世の内容と年代が特定可能である[7]。『三国史記』百済本紀・?有王紀の分註によれば、久尓辛王の薨去後、太子として王位を継いだ?有王は、実際には久爾辛王の異母弟であると記されている[12][13]。 南朝宋の武帝は即位の翌月に人事を行った。そのなかには朝鮮半島に関わるものもあり、征東将軍高句麗王高lを征東大将軍に、鎮東将軍百済王久尓辛王を鎮東大将軍に昇格させた。この将軍人事は、他に徐州や雍州の刺史が対北方関連で任命されており、現実の宋の勢力範囲を反映している[14]。そのなかに高句麗と百済が含まれているのであり、坂元義種が論じたように、高句麗や百済の昇格は新王朝成立における記念と来朝を促す目的でなされたと考えられてきた。もちろんそうした面は認めるべきであるが、この人事を見る限り高句麗や百済は単なる外国ではなく宋国内の将軍と同列に扱われており、宋が軍事的に両国に期待していた様子がうかがえる[14]。
将軍号
家族
父:腆支王
母:八須夫人
子:?有王
脚注^ a b 『三国史記』では「427年」と記載。
^ 『三国史記』では「420年」と記載。
^ なお「爾