久地
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新平瀬川が流れる先は、かつては久地梅林(くじばいりん)と呼ばれる花の名所であり、往時は稲田堤の桜とともに花見の名所として親しまれていたという。

徳川吉宗が治世した享保年間に、久地村の庄屋の川辺森右衛門は幕府に梅樹種の改良を命じられ、屋敷の内外に梅の木数百本を植えたのが、久地梅林の始まりである[10]。この梅林は私有地であるが、1927年(昭和2年)に開通した南武鉄道が「久地梅林駅」(現在の久地駅)と称し、玉川電車も沿線観光絵はがきなどで宣伝したことで、一層有名になった[11]

しかし戦争中の食糧増産、戦後の近代化に伴う工場進出や宅地化に伴い、梅林は次第に削られ、現在は限られた私有地敷地内に極わずかに残るのみになっている。付近のバス停や交差点名に「梅林」の名が現在も残る。近年になって新平瀬川沿いに川崎市が「久地梅林公園」を設置し、その中に新たにの木を植え、また 1933年北原白秋が当地で詠った詩を刻んだ碑を設けるなどして、往時の面影を今後に伝えるための準備をしている。

平成13年には、梅は高津区の木に指定されている[10]
津田山(七面山)

当町と隣接する下作延との間に、小高い丘がある。これはかつて七面山(しちめんやま)と呼ばれていたが、1927年に溝ノ口線(現在の東急田園都市線の一部)を開通させた玉川電気鉄道の津田興二社長がこの丘で開発を手がけたことから、七面山は後に「津田山」(つだやま)と呼ばれるようになった[12][13]かつて遊園地などが計画された津田山(七面山)には現在はマンションが建ち、東京・横浜バイパス切通しで越える様相へと変貌した。 (2006年2月27日撮影)

当時は東京五輪の選手村の誘致の候補地として、津田山、諏訪河原、瀬田などの多摩川沿岸が挙げられていた[12]。国際オリンピック誘致運動から帰国した平山良三にもらった五輪旗と日章旗を、津田山に設置した掲揚台に掲げた[12]。しかし、戦況悪化により五輪開催自体がなくなり、ここ津田山の開発も立ち消えになった。

現在は、町内の一角には久地神社および成田山久地不動尊が豊かな森に囲まれながら祀られているが、下作延町内は後に宅地化され、また東京・横浜バイパス敷設時に一部が切り通されるなどして、結局、その様相は大きく変貌することとなった。

なお、近年は「津田山」の名が定着しており、津田山を越えて反対側の下作延町内に置かれた南武線の駅名もかつては「日本ヒューム管前」駅であったが、1944年(昭和19年)4月の国有化時に「津田山駅」へと改称している[13](詳しくは津田山駅#歴史を参照)。

また、この津田山(七面山)周辺では古墳時代後期(6?7世紀)のものと推定される数多くの横穴墓群が見つかっており、近年になって相次ぐ都市開発に追われるように一部が発掘調査され、鉄製品や勾玉、金環などが出土している。
世田谷区久地町

東京都世田谷区で住居表示が実施されるまでは、多摩川の左岸にも久地町が存在した。1941年の世田谷区地図によれば、世田谷区久地町は、大部分は河川、河原の一部であった。
沿革

1878年(明治11年) - 神奈川県橘樹郡久地村。

1889年(明治22年) - 溝口村など近隣7ヶ村と合併し高津村大字久地になる。

1912年(明治45年) - 多摩川左岸地域(概ね野川以南の地域)が北多摩郡砧村大字鎌田(現在の世田谷区鎌田1、2丁目付近)へ編入される。

1928年(昭和3年) - 町制施行、神奈川県橘樹郡高津町大字久地になる。

1937年(昭和12年) - 川崎市に編入、神奈川県川崎市大字久地になる。

1972年(昭和47年) - 政令指定に伴い行政区が設置され、神奈川県川崎市高津区大字久地になる。

1997年度(平成9年度)- 二子住居表示の実施に伴い町境を一部変更。

2002年度(平成14年度) - 住居表示の実施に伴い、大字久地の一部から久地1丁目、久地2丁目、久地3丁目、久地4丁目を設置。このとき溝口、下作延との町境を一部変更している。

町名の由来

かつて暴れ川であった多摩川に度々河岸をクヂ(刔)られたことから、などとも言われているが、定説はない。

元禄年間に、かつて上杉氏に仕えていた女性がとなり当地に永住したと言われるが、その比丘尼(びくに)が転訛したものともいわれている。比丘尼を祀った弁天社は信仰を集め、現在は成田山久地不動尊として久地円筒分水付近に今も残っている。

なお、かつてはその読みを「くぢ」とも表記していたが、現在は「くじ」と読む。
世帯数と人口

2024年(令和6年)3月31日現在(川崎市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]

大字丁目世帯数人口
久地209世帯558人
久地1丁目1,676世帯3,241人
久地2丁目1,300世帯2,416人
久地3丁目1,513世帯4,025人
久地4丁目1,755世帯3,207人
計6,453世帯13,447人

人口の変遷

国勢調査による人口の推移。

人口推移年人口
1995年(平成7年)[14]7,720
2000年(平成12年)[15]8,248
2005年(平成17年)[16]9,573
2010年(平成22年)[17]12,391
2015年(平成27年)[18]13,223
2020年(令和2年)[19]13,630

世帯数の変遷

国勢調査による世帯数の推移。

世帯数推移年世帯数
1995年(平成7年)[14]3,547
2000年(平成12年)[15]3,829
2005年(平成17年)[16]4,378
2010年(平成22年)[17]5,461
2015年(平成27年)[18]5,855
2020年(令和2年)[19]6,199

学区

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2023年10月時点)[20][21]

大字・丁目番・番地等小学校中学校
久地155?159番川崎市立高津小学校川崎市立西高津中学校
160番以降川崎市立久地小学校
久地1丁目27番1?8号、28番1?8号
36?50番
1?26番
27番10号?最終号
28番9号?最終号
29?35番川崎市立高津小学校
久地2丁目全域
久地3丁目6番1号
1?5番
6番8?10・12?13・16号
7?16番川崎市立久地小学校
久地4丁目全域

事業所

2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[22]

大字丁目事業所数従業員数
久地37事業所535人
久地1丁目83事業所502人
久地2丁目88事業所1,032人
久地3丁目68事業所1,445人
久地4丁目104事業所1,323人
計380事業所4,837人

事業者数の変遷

経済センサスによる事業所数の推移。

事業者数推移年事業者数
2016年(平成28年)[23]349
2021年(令和3年)[22]380


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