高校時代は商業高校ということもあって、在学中に簿記検定などの資格も取得した。
1981年駒沢大学入学と同時に上京。大学では軽音楽部ロック研究会に属し、そこで出会った羽田一郎とアマチュアバンド「HOTTENTOTS」(ホッテントット)を結成。1982年、ヤマハ主催のコンテスト「EAST WEST '82」に出演し、ベスト・ボーカリスト賞を受賞。(このコンテストで披露された演奏は、レコードに収録され発売された。またバンド在籍時の久保田は、アフロヘアーに口ひげを生やしていた[注 3]。)頻繁に髪型を変える[注 4]。
大学のゼミは「アフリカ研究会」(古沢紘造教授)に所属。好きな音楽のルーツがアフリカだったため、アフリカ三昧で楽しかったという。卒論も「アフリカの音楽」 をテーマにした[6]。駒澤大学は1985年に卒業する。
大学を卒業後、音楽プロデューサーとしてキティミュージックとの作家契約で音楽業界に入り、1980年代には20代前半という若さで多くの歌手、アイドルに楽曲を提供。主な相手としては、田原俊彦、中山美穂、小泉今日子、鈴木雅之、GWINKO、荻野目洋子、芳本美代子、小山水城、とんねるず、バブルガムブラザーズ。特に田原には1985年から1993年までの間に多くの楽曲を提供している。1990年代に入ってからも、清水美恵、西田ひかる、森高千里、TOKIO、橋真梨子などに楽曲提供。2000年以降もCHEMISTRY、MISIA、ISSA、山田優などに提供している[注 5]。
2004年、ノルウェーの外資系企業に勤める11歳年下の女性と入籍。同年12月、第一子となる男児が誕生した。
好きな食べ物はエビフライ、担々麺以外のラーメン、シャウエッセン。特にラーメンは久保田の実家の近所にある食堂「蒲原館」のラーメンと徳島製粉「金ちゃんヌードル」がお気に入りで、特に金ちゃんヌードルはSNS等で本人がファンと公言する程である。また、西麻布の百貨店にある惣菜店の焼きそばも大変気に入っている[7]。嫌いな食べ物は柿とセロリで、柿については本人曰く「柿は柔らかくても硬くても食えない」とのことである。また、20代の頃から体重は50kg台後半から60kg程度を維持しており、出前は好きな物を食べているが、玄米を主食にし体重を維持している[注 6]。
久保田の作品はテレビドラマへの起用が多く、特にフジテレビ系列への起用が目立っている。なお、テレビ東京系列の番組に久保田の楽曲が起用されたことは長らく無かったが、2020年1月期のテレビ東京系列のテレビドラマで初の起用となった[注 7]。
バックトラックはコンピュータへの打ち込みを基本とし、デビューアルバムからデジタルレコーディング[注 8]が用いられており、デビュー数年後からDAWの元祖であるシンクラヴィアも使い始めた。シンクラヴィアは1980年代では数億円もの高値で販売された最高級の機材で、久保田以外では小室哲哉[注 9]、松任谷正隆、崎谷健次郎、加山雄三、スティーヴィー・ワンダー、マイケル・ジャクソン、フランク・ザッパらが使用していた。
2015年12月に『松尾潔のメロウな夜』(NHK-FM) に出演した際、楽曲製作でマーヴィン・ゲイの影響を大きく受けていると話している。
略年譜
1982年 YAMAHA主催のコンテスト『East West』に出場し、ベストヴォーカリスト賞を受賞。
1984年 松岡直也のアルバム『LONG FOR THE EAST』の1曲目「The Latin Man」に作詞・ゲストボーカルとして参加(全詞英語。コーラスは楠瀬誠志郎)。
1985年 アマチュアながら音楽業界の注目を浴び、TBSラジオ「SURF&SNOW」のサウンドステッカー制作を担当する。田原俊彦の「華麗なる賭け」、「It's BAD」、岩崎宏美の「月光」を作曲。この頃に趣味で「すごいぞ!テープ」を作成する。
1986年
6月21日 シングル「失意のダウンタウン」で、CBS/SONYからメジャーデビューする。
9月にはファーストアルバム『SHAKE IT PARADISE』、12月にはセカンドシングル「TIMEシャワーに射たれて…」をリリース。
1987年 4枚目のシングル「Cry On Your Smile」でシングルチャート最高8位を記録。
1988年 5枚目のシングル「You were mine」がフジテレビ系ドラマ(月9枠)「君の瞳をタイホする!」の主題歌となる。TBS「ザ・ベストテン」にも、(VTR出演ではあったが)初登場。オリコン年間ランキングにおいて1988年度第10位となる。
1989年 1枚目のベスト・アルバム『the BADDEST』が、シングル・アルバム通じて初のミリオンセラー。
1990年「第41回NHK紅白歌合戦」に初出場(アリスン・ウイリアムズとデュエット)
1991年 ナイジェリアで開催されたイヴェント〈The Children Of Africa Concert〉に出演し、ジミー・クリフの「MANY RIVERS TO CROSS」と、オリジナル曲「MAMA UDONGO」を披露[8]。
1992年 キティミュージックからFUNKY JAMに移籍[9]。
1993年 日本における11枚目のシングル「夢 with You」がフジテレビ系ドラマ(水曜劇場枠)「チャンス!」の主題歌となる。本人も最終回にちょい役で出演。年末、ニューヨークに拠点を移す。
1994年 日本ハム「シャウエッセン」のCMに出演。以後、1999年まで続く。
1995年「Toshi Kubota」として全米デビュー。
1996年6月21日、メジャーデビュー10周年。ナオミ・キャンベルとデュエットした「LA・LA・LA LOVE SONG」が、フジテレビ系ドラマ(月9枠)「ロングバケーション」の主題歌となり、ミリオンセラーを記録。ちなみに、当該曲の「LA・LA・LA」は久保田の出身地の方言の語尾に使われる「?ら」から取ったとのこと。また、作詞をしている時に、歌詞が浮かばずに浮かんだのが、「LA LA LA」と書いたともいわれている[10]。