なお、主要国首脳会議(G7サミット)を単に「サミット」と表す場合があるが、英語でSummitは首脳会議のことを意味するため、必ずしも適切ではない。 1998年サミットから2014年のロシアによるクリミア併合までは主要国首脳会議の構成メンバーは以下の8か国であり、G8、主要8か国首脳会議などと呼ばれていた[21]。 上記の8か国の政府の長および欧州連合の欧州理事会議長と欧州委員会委員長が年に1度集まり、国際的な政治的・経済的課題について議論する会合である(その他の国の首脳や国際機関の代表も例外的に出席することがある)。また、それに合わせて数多くの下部会議や政策検討も行われる。ただし、2014年以降、ロシアはその参加資格を停止[注釈 3]されている(後述)。第14回先進国首脳会議の際、開催地に選ばれたトロントにて掲揚されたG7各国の国旗。1988年7月 カナダとイタリアが加わる以前は日本[22]、アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツの5か国が参加するG5と呼ばれていた。1975年にイタリアが参加し第1回先進国首脳会議が開催されG6となる。その後1976年にカナダが加わり第2回先進国首脳会議が開催されG7となった。現在では首脳や各閣僚による会合は全てG7の枠組みとなっている。カナダ以外の6か国は20世紀前半までの帝国主義時代における列強にあたる[23][24]。 なお、ロシアの参加によって首脳会議や閣僚会合がG8という枠組みとなっていた時代においても、財務相・中央銀行総裁会議に関してはG7の枠組みで活動していた。そのため一時期は「G7=先進国財務相・中央銀行総裁会議」の略称として用いられていたとされる。 発足時の名称は「先進国首脳会議」。 冷戦下の1973年のオイルショックと、それに続く世界不況に起源を持つ。1973年3月25日、この不況を憂慮したアメリカ財務長官ジョージ・シュルツは、将来の経済的課題を討議する会議を模索するため、西ドイツ・フランス・イギリスからそれぞれ財務大臣(ヘルムート・シュミット、ヴァレリー・ジスカールデスタン、アンソニー・バーバー
概説
アメリカ合衆国
イギリス
フランス
ドイツ
日本
イタリア
カナダ
ロシア
経緯
1975年、フランスで大統領となったジスカールデスタンは、ライブラリーグループのメンバーに日本を加えた“工業化された4つの主要民主主義国”の首脳をフランスのランブイエに招待し、フランスを含めて5か国で初めての首脳会議を開き、定期的に首脳会議を持つことを提案した。このときの出席者は、主催国(議長国)を持ち回りで交代しつつ年に1回会議を持つことに合意した。こうしていわゆる「G5」が生まれた[27]。しかし、これを不服としたイタリアの首相アルド・モロが第1回会議に乗り込んで来た為、その場でイタリアが追加されG6となる。「第1回先進国首脳会議」も参照
しかし、これではヨーロッパに偏る為[28]、翌年のプエルトリコの首都サンフアンでのサミットで米国のジェラルド・フォード大統領の要請によりカナダが参加し「G7」となる。「第2回先進国首脳会議」も参照