主体思想
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主体思想は「常に朝鮮の事を最初に置く」という自民族中心主義の意味でも使われている[6]。金日成は、主体思想は「人間が全ての事の主人であり、全てを決める」という信念を基礎としている、とした。
用語

ハングルでは「????」、朝鮮漢字では「主體思想」と表記される。日本語では「主体思想」[注釈 2]と表記される場合が多いが、「チュチェ思想」[注釈 3]の表記も使用されている[注釈 4]。日本の主体思想団体では「自主の道」などの言い換えもなされている。
歴史

朝鮮労働党の公式党史では「主体(思想)」の起源は1930年代で、最初の言及は1930年主体19年=昭和5年)6月30日の金日成が18歳の時の演説とされている[8]。しかし、これらの情報には信憑性が無い[9]

知られている北朝鮮での「主体(チュチェ)」への最初の言及は、1955年12月28日の金日成による演説『思想的研究における教条主義および形式主義の除去と「主体(チュチェ)」の構築」』[10]である。金日成はこの演説で、党の宣伝担当者はソビエト連邦から思想や慣習を輸入するのではなく、朝鮮自身の「ウリシク(我々式)」の方法によって朝鮮革命を前進させるべきであると論じた。これは、スターリン批判が国内に波及することを恐れた金日成が防波堤を作ったものであるとの見方もある。朝鮮で革命を行うために、我々は朝鮮人民の慣習と同様に、朝鮮の歴史や地理学も知るべきである。それらが彼らに適合し、彼らの生まれ故郷や祖国への激しい愛情を彼らに呼び起こすことを通じてのみ、我々の人民を教育する事が可能になる。 ? 金日成[6]:421

1950年代後半、金日成がマルクス・レーニン主義の彼自身の見解の構築を考えていた時に、首席思想相談役だった黄長Yが、この演説の「主体」がマルクス・レーニン主義の独創的な発展とみなせる事を発見し[11]、この概念を社会的に定義された信条として構築を開始した[3]との主張がある。1958年までに金日成が北朝鮮での支配を確立すると、この言葉は人民による彼への献身を示す目的で使い始められ、金日成やその一族の歴史や指導者としての正統性への美化など、個人崇拝が進められた[12]。「マルクス・レーニン主義#前衛党論」および「黄長Y#金日成総合大学総長時代」も参照

冷戦の期間中、北朝鮮は主体思想と自立の原則を他国、特に非同盟諸国への経済発展の方法として推進した。1967年から自己への権力集中を強化していたルーマニア大統領ニコラエ・チャウシェスクは、1971年、朝鮮民主主義人民共和国を含むアジア諸国訪問時の北朝鮮の思想的な動員力と大衆による賞賛に影響を受けていた。詳細は「ニコラエ・チャウシェスク#共産主義体制の影響」を参照

1972年の憲法改正で、主体思想は公式な国家思想としてマルクス・レーニン主義と置き換えた。これは中ソ対立の影響でもあったが、主体思想は「マルクス・レーニン主義の創造的な適用」と定義された。金日成はまた、主体思想は全てのスターリン主義国家を継承する、計画的な位置づけであると説明した[13]。「朝鮮民主主義人民共和国の政治#社会主義下の政治・経済改革」および「スターリニズム#党組織論」も参照

1977年8月、北朝鮮政府は主体思想に関する最初の国際的会議を主催し、その中で日本チュチェ思想国際研究所と、スペインの朝鮮友好連盟(英語版)が注目された[14]

金日成は1994年の死去以後も崇拝され、1998年の憲法改正で「永遠の主席」とされた。後継者の金正日は「金日成主席にならぶ偉大な指導者・民族の太陽」と呼ばれるようになった。朝鮮の歴史は1866年に遡って、アメリカ帝国主義(米帝)に対して闘争する「英雄的な」金一族と、その祖先について書き直された。これらの金一族への崇拝は、主体思想によって支援され、金日成は全人民の「最上の指導者で太陽」とされた[12]。詳細は「金亨稷#生涯」および「丙寅洋擾#背景」を参照「金正日の呼称一覧#リスト」および「興宣大院君#鎖国政策」も参照

1997年には主体年号が開始された。

2012年4月に開催された第4回党代表者会(朝鮮語版、中国語版)の中で、主体思想は定義が拡張され、金正恩が金日成思想の包括的な理解者かつ金正日思想の発展かつ進化であり、「金日成・金正日主義」との用語で表現された。金正恩は党代表者会の直前、党中央委員会の責任幹部を前に以下の演説を行った。金日成・金正日主義は、整合性ある思想体系であり、チュチェ(思想)の理論と手法であり、チュチェ時代を代表する偉大で革命的な思想である。金日成・金正日主義に従い、(金日成)主席および(金正日)将軍の思想と方向性を合致させて、我々は党建設と党活動を指揮し、我々の党の革命的な特性を強化し、革命を前進させ建設すべきである。 ? 金正恩[15]
内容
主体思想の確立期

主体思想自身は1956年から表面化した中ソ対立による政治的緊張下で、全体的で思想的なドクトリンとして段階的に形成されていった。すなわち北朝鮮国内における親ソ派(ソ連派)・親中派(延安派)の粛清(8月宗派事件)とソ連、中国の影響の排除を通じ、金日成はマルクス・レーニン主義の独自解釈を進めることとなった。特に、フルシチョフ政権下のソ連共産党第20回大会で「西側諸国との平和共存路線」が打ち出されると、朝鮮半島の解放(すなわち南朝鮮からのアメリカ帝国主義の排除)を国是とする北朝鮮と、ソ連との対立は深まってゆく(これに対し、ソ連の平和共存路線を「修正主義」として批判した中華人民共和国は、北朝鮮と接近することになった)[16]。「朝鮮民主主義人民共和国の歴史#1960年代 主体思想」および「中ソ対立#中ソ対立と東側諸国・各国共産党」も参照

主体思想は約10年間は脇に押しやられ、1963年の金日成の朝鮮人民軍への「主体」原則の演説により再登場した[12]

主体思想という言葉は、1965年4月14日に金日成がインドネシアのアリ・アハラム社会科学院で行った演説『朝鮮民主主義人民共和国における社会主義建設と南朝鮮革命』に登場する。同演説によると、一国の独立には「思想における主体」「政治における自主」「経済における自立」「国防における自衛」の確立が必要であり、北朝鮮が保持してきたこの立場が「主体思想」であるとされた。

その後1966年10月の朝鮮労働党第2回代表者会では主体思想が定式化され、「帝国主義との徹底闘争」「植民地民族解放運動と国際労働運動の支持」「社会主義政権」「内政不干渉・相互尊重・互恵平等」が北朝鮮の進むべき路線であるとされた。このように、主体思想はその確立期にあって、大国による内政干渉を排除し自主路線を歩むこと、そのためにマルクス・レーニン主義に対する独自のアプローチをとることを主要な内容としていた。

1967年5月の党中央委員会全員会議では、「唯一思想体系」を確立し、修正主義分子を排除することが謳われた。これにより、金日成と共に抗日パルチザン闘争を戦った甲山派も党内から排除された。主体思想が朝鮮労働党の首領である金の思想であることが確立されたことで、党内のイデオロギー的対立は形式的には克服されたことになった[17]。詳細は「唯一思想体系#解説」および「甲山派#概要」を参照

なお現在では、主体思想塔に朝鮮人民軍の兵士や平壌市民、大勢の訪朝観光客が観光・崇拝をしている。
主体思想の変容期

北朝鮮の自主独立路線と、マルクス・レーニン主義独自解釈を打ち出した主体思想は、やがて、首領金日成の唯一絶対の思想としての地位を確立し、これに対する一切の批判を排除することを通じて、金一族の絶対的権力を正当化するイデオロギーとしての色彩を強めていく。そのことは、いずれ訪れる長男・金正日への地位の継承を準備する意味も持っていた。

1972年(主体61年)12月27日の最高人民会議第5期第1回会議でそれまでの朝鮮民主主義人民共和国憲法を全面的に改正した朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法では、主体思想が国家の指導指針とされた。


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