主体思想
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主体思想は約10年間は脇に押しやられ、1963年の金日成の朝鮮人民軍への「主体」原則の演説により再登場した[12]

主体思想という言葉は、1965年4月14日に金日成がインドネシアのアリ・アハラム社会科学院で行った演説『朝鮮民主主義人民共和国における社会主義建設と南朝鮮革命』に登場する。同演説によると、一国の独立には「思想における主体」「政治における自主」「経済における自立」「国防における自衛」の確立が必要であり、北朝鮮が保持してきたこの立場が「主体思想」であるとされた。

その後1966年10月の朝鮮労働党第2回代表者会では主体思想が定式化され、「帝国主義との徹底闘争」「植民地民族解放運動と国際労働運動の支持」「社会主義政権」「内政不干渉・相互尊重・互恵平等」が北朝鮮の進むべき路線であるとされた。このように、主体思想はその確立期にあって、大国による内政干渉を排除し自主路線を歩むこと、そのためにマルクス・レーニン主義に対する独自のアプローチをとることを主要な内容としていた。

1967年5月の党中央委員会全員会議では、「唯一思想体系」を確立し、修正主義分子を排除することが謳われた。これにより、金日成と共に抗日パルチザン闘争を戦った甲山派も党内から排除された。主体思想が朝鮮労働党の首領である金の思想であることが確立されたことで、党内のイデオロギー的対立は形式的には克服されたことになった[17]。詳細は「唯一思想体系#解説」および「甲山派#概要」を参照

なお現在では、主体思想塔に朝鮮人民軍の兵士や平壌市民、大勢の訪朝観光客が観光・崇拝をしている。
主体思想の変容期

北朝鮮の自主独立路線と、マルクス・レーニン主義独自解釈を打ち出した主体思想は、やがて、首領金日成の唯一絶対の思想としての地位を確立し、これに対する一切の批判を排除することを通じて、金一族の絶対的権力を正当化するイデオロギーとしての色彩を強めていく。そのことは、いずれ訪れる長男・金正日への地位の継承を準備する意味も持っていた。

1972年(主体61年)12月27日の最高人民会議第5期第1回会議でそれまでの朝鮮民主主義人民共和国憲法を全面的に改正した朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法では、主体思想が国家の指導指針とされた。同時に国家主席のポストが新設され、それまで朝鮮労働党の「首領」とされていた金日成に憲法上も最高指導者の地位が付与された。

さらに、1974年には党の唯一思想体系確立の10大原則が成立。主体思想の目指すところを具体化しつつ簡潔にまとめた、社会主義憲法や朝鮮労働党規約を上回る北朝鮮公民の最高規範と位置付けられた。そして、公民に対しては戦前・戦中の大日本帝国教育勅語にも劣らぬ徹底的な教育が行われた。詳細は「党の唯一思想体系確立の10大原則#旧条文」および「朝鮮民主主義人民共和国の歴史#1970年代 1972年憲法と金正日の台頭」を参照「教育ニ関スル勅語#第二次世界大戦中」も参照

1982年の金正日の『チュチェ思想について』によると、国家政策における主体思想の適用の概要は以下である[18]
人民は、思想や政治的には独立し、経済的には自己供給し、国防では自己依存していなければならない。

政策は大衆の意思と願望を反映し、革命と建設の中で彼らを完全に雇用しなければならない。

革命と建設の手法は、国家の状況に適応されなければならない。

革命と建設の最重要作業は、人民を思想的に共産主義者に形成し、彼らを建設作業に動員する事である。

「主体」の視点では、革命的な党と指導者への絶対的な忠誠心を要求した。北朝鮮では、それらは朝鮮労働党と、最高指揮官たる金日成であった。スターリンが押し進めた個人崇拝を北朝鮮の実情に合わせて進化させたもので、「領袖は党、党は国家」というスローガンとともに朝鮮社会への浸透を推し進めた。そして金日成の死後、金正日指導の下では先軍思想が主体思想と同列に推されたことにより、事実上「領袖は軍、軍は党、党は国家」という軍国主義的な要素を含んだものへと変質する。「北朝鮮の個人崇拝#背景」および「先軍政治#概要」も参照

北朝鮮の公式な歴史では、「主体」の最初の適用とされるものの1つは千里馬運動とも呼ばれている1956年から1961年の五カ年計画である。この五カ年計画はソビエト連邦中華人民共和国の両方からの政治的独立を確実にするために、重工業に焦点を当てた北朝鮮の迅速な経済発展を目的としたが、1928年のソビエト連邦の第一次五カ年計画と同様の中央集権的な国家計画の手法を適用し、また毛沢東の第一次五カ年計画や大躍進政策とも部分的には関連があった。

しかし、経済的自立の願望に反して、北朝鮮は他の諸国からの経済援助に依存し続けている[19]。歴史的には、1991年のソビエト連邦の崩壊まではソビエト連邦からの援助に最も依存していた[19]朝鮮戦争後の1953年から1963年は「兄弟」諸国からの経済援助や資金に頼り、1953年から1976年はさらにソビエト連邦の産業支援に強く依存した。ソ連崩壊により北朝鮮経済は危機に陥り、社会基盤の運営にも失敗し続けたことから、1990年代半ばには大規模な飢饉が発生した。詳細は「朝鮮民主主義人民共和国の経済史#大飢餓と深刻な経済難」および「苦難の行軍#概要」を参照

その後、中華人民共和国が最大の援助国となり、人道援助に年4億ドルを提供し[20]、北朝鮮の貿易は中国が90.6%も占めている[21]。2005年には北朝鮮は2番目に多い国際食糧援助を受けており、恒常的な食料不足に悩まされている。詳細は「朝鮮民主主義人民共和国の経済史#混迷続く経済状態」および「朝鮮民主主義人民共和国の国際関係#中華人民共和国」を参照
批評

ブライアン・レイノルズ・マイヤーズ(英語版)などの人権監視組織や政治アナリストは、北朝鮮の実情は「主体思想」との類似性が無いと継続的に報告している[22]。北朝鮮の経済は、社会主義国間の貿易ブロックが崩壊する前も後も海外からの輸入や支援に深く依存しており、また人々は実際には意思決定を重視されていない。

主体思想の理論家である黄長Yは、韓国への亡命後の書籍『金正日への宣戦布告』などで、本来の主体思想はマルクス・レーニン主義の適用だが、実際には金一族による独裁政治や個人崇拝に利用されていると批判した[23]

論理学者の Thomas J. Belke による1999年の著作『Juche: A Christian Study of North Korea's State Religion』や、政治学者の Han S. Park による2002年の著作『Juche: The Politics of Unconventional Wisdom』は、いずれも主体思想は政治的宗教(英語版)に関連していると記した[24]。また Myers は、毛沢東に関する政治的理論と比較して、主体思想は金日成への賞賛のための単なる欺瞞となっているとした[22]

中国の映画監督の胡戈(中国語版)は、主体思想を風刺した[25]

2001年に、内藤陽介は、著書『北朝鮮事典』の主体思想の項目[26]において、日成の死後、当時、思想担当の責任者であった正日が主体思想を宗教思想へとつくりかえたとした。正日は、主体思想を宗教思想として整備する上で、社会政治的生命体論に基づき、首領を脳髄、党を神経とし、人民を手足とする三位一体の有機体国家論(革命的首領観)を提唱した。内藤陽介は、「この有機体国家論の整備をもって、主体思想は存在論を備えた宗教思想としての一応の完成をみた」としている[27]

2007年デイリーNKの報道では、アメリカ宗教情報統計サイト『アドヘレンツ・ドットコム』[28]は、主体思想を「宗教」と規定し、その追従者は1900万人(当時の数値。現在は2500万人に修正)を数え、信者数世界第10位の宗教であると発表した[29]。アドヘレンツ・ドットコムの発表は、その多くをThomas J. Belke著、『Juche - A Christian Study of North Korea's State Religion』に準拠している[30][31]
脚注[脚注の使い方]


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