(どちりなきりしたん,1600)
ぱあてるのすてる
てんにましますわれらが御(おん)おや御(み)名(な)をたつとまれたまへ。
御(み)代(よ)きたりたまへ。
てんにおひておぼしめすまゝなるごとく、
ちにをひてもあらせたまへ。
われらが日(にち)々(にち)の御(おん)やしなひを今(こん)日(にち)われらにあたへたまへ。
われら人(ひと)にゆるし申(まうす)ごとく、われらがとがをゆるしたまへ。
われらをテンタサンにはなし玉(たま)ふことなかれ。
我(われ)等(ら)をけうあくよりのがしたまへ。
アメン。
(おらしよの翻訳,1600)
ぱあてるなうすてるのおらしょ 下記の訳文は、プロテスタント系の讃美歌集の多くに掲載されている文語訳(1954年改訂版には564番に掲載)のもので、現在でも多く用いられている。 天にまします我らの父よ。 2000年に、日本のカトリック教会と日本聖公会では、独自の文語訳ないし口語訳から以下に紹介する共通口語訳を制定し、以降正式に用いている。 天におられるわたしたちの父よ、 斜字部分は、前述のとおりラテン語訳文になかったためカトリック教会では伝統的に「主の祈り」と見なさなかった部分で、カトリックの祈祷書などでは、エキュメニカル(超教派的)な集いなどで頌栄を続けて唱える場合の祈りとして紹介されている[6]。カトリック教会では、この部分が主の祈りとして唱えられることはいまもほとんどなく、カトリックの現行のミサ典礼文や典礼聖歌集には、共通口語訳のうちこの部分を除いた祈りが掲載されている。ただし、ミサの中(ミサ典礼文)では、最後の「アーメン」を唱えず、後述のとおり司祭による副文と一同による栄唱(頌栄)が唱えられる。 聖公会では、1990年版の現行『日本聖公会祈祷書』の聖餐式の項においては、冒頭部分にルブリック(小さい文字で書かれる注釈)で「主の祈りを歌いまたは唱える」と書かれ、また斜線部分(頌栄)の直前にルブリックで「続けて次の祈りを歌いまた唱える」と書かれてあり、「主の祈り」の正文と頌栄部分を区別する意図が見られる。それ以前の文語版祈祷書では頌栄部分は含まれておらず、正文の末尾に「アーメン」を付す。[7]。 カトリック教会のミサ典礼文では、ミサ聖祭中の「主の祈り」に限り、正文(斜線の手前まで)に続いて司祭が副文[注 1]を唱え、その結びに、栄唱(頌栄部分)に相当する句を下記のように一同で唱える。続いて司祭が「教会に平和を求める祈り」を唱え、その結びに一同が「アーメン」と唱えるようになっている。 カトリック教会が、2000年2月15日まで使用していた主の祈り(主祷文)。現在は、公式には使用されていない。 天にましますわれらの父よ、 東方教会へはおもに教会スラブ語を通して伝わっており、日本正教会では明治期にこの教会スラブ語(ロシア正教会で使用)から作成された独特の文語体を現在でも使用しており、天主経(てんしゅけい)と呼ぶ。頌栄の部分は、司祭がその場にいるかいないかで変わる。正教会では聖体礼儀などの奉神礼においてのみならず、食前や集会の始まりに天主経を用いる。多く集会の場では定められた単純な旋律にのせて歌われる。 天(てん)に在(いま)す我(われ)等(ら)の父(ちち)や。 多くの教派が、その公祈祷に主の祈りを取り入れている。もっとも代表的なものは、ミサ・聖体礼儀などの聖餐を伴う祈祷である。ほかにも正教会においては晩課や各時課、カトリック教会でも聖務日課やロザリオの祈りの中でも唱えられる。具体的な配置についてはそれぞれの項目を参照。 主の祈りは、それを歌うように作曲され、聖歌ないし賛美歌ないし他の目的で歌われている。 など
ぱあてるなうすてる きゑす いんせりす。
さんらひせつる なうめんつうん。
あつへにあつ れぬん つうん。
ひいあつ おるたんす つうあ。しいくつ いん せろ ゑつ いんてら。
ぱあねん なうすつるん こちゝあぬん だなうびす おぢゑ。
ゑつ ぢみて なうびす てびた なうすた□。
しいくつ ゑつ なうす ぢみちむす。でびたうりぷす なうすちりす。
ゑつ ね なうす いんづうかす いん てんたしやうね。
せつ □へら なうす あまろ。
あめん。
プロテスタント訳(1880年)
ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。
御国〔みくに〕を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救い出〔いだ〕したまえ。
国と力と栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。
カトリック教会と日本聖公会の共通口語訳
み名が聖〔せい〕とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を
今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。
[アーメン]
カトリックのミサにおける副文
カトリック口語訳
国と力と栄光は、永遠にあなたのもの
ラテン語原文
Quia tuum est regnum, et potestas, et gloria in saecula.
カトリック教会の文語訳
願わくは御名の尊まれんことを、
御国の来たらんことを、
御旨〔みむね〕の天に行わるる如く
地にも行われんことを。
われらの日用の糧を
今日〔こんにち〕われらに与え給え。
われらが人に赦す如く、
われらの罪を赦し給え。
われらを試みに引き給わざれ、
われらを悪より救い給え。
[アーメン]
日本正教会の「天主経」
願(ねがはく)は爾(なんぢ)の名(な)は聖(せい)とせられ。
爾(なんぢ)の國(くに)は來(きた)り。
爾(なんぢ)の旨(むね)は天(てん)に行(おこな)はるるが如(ごと)く、
地(ち)にも行(おこな)はれん。
我(わ)が日(にち)用(よう)の糧(かて)を今(こん)日(にち)我(われ)等(ら)に與(あた)へ給(たま)へ。
我(われ)等(ら)に債(おひめ)ある者(もの)を我(われ)等(ら)免(ゆる)すが如(ごと)く、
我(われ)等(ら)の債(おひめ)を免(ゆる)し給(たま)へ。
我(われ)等(ら)を誘(いざなひ)に導(みちび)かず、
猶(なほ)我(われ)等(ら)を凶(きょう)惡(あく)より救(すく)ひ給(たま)へ。
(司祭が居る場合、以下司祭朗誦・高声)
蓋(けだ)し國(くに)と權能(けんのう)と光榮(こうえい)は爾(なんぢ)父(ちち)と子(こ)と聖神゜(せいしん)に歸(き)す、今(いま)も何時(いつ)も世々(よよ)に。「アミン」。
(司祭がいない場合は以下、ただし唱えられないことも多い)
蓋(けだ)し國(くに)と權能(けんのう)と光榮(こうえい)は爾(なんぢ)に世々(よよ)に歸(き)す「アミン」。
典礼上の使用
音楽に載せて
9?10世紀:グレゴリオ聖歌 (ラテン語)
1607年:ハンス・レーオ・ハスラー (ドイツ語)
1878年:ピョートル・チャイコフスキー (教会スラブ語)
1883年:ニコライ・リムスキー=コルサコフ (同上)
1910年:セルゲイ・ラフマニノフ (同上)
1926年:イーゴリ・ストラヴィンスキー (教会スラブ語 & その後ラテン語)
1944年:エルンスト・クルシェネク「五つの祈り」の定旋律(ドローン)として利用(ラテン語)但し、音楽は、別の音楽として作曲者が改変。
1999年:Paul Field
2000年:ジョン・タヴナー (英語)
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 「いつくしみ深い父よ、すべての悪から わたしたちを救い、世界に平和をお与えください。あなたのあわれみに支えられて、罪から解放され、すべての困難にうち勝つことができますように。わたしたちの希望 救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます。」
出典^ プロテスタントの日本語訳聖書では、明治元訳聖書にはこの頌栄部分も書かれていたが、大正改訳以降の聖書には書かれていない。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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