丹波哲郎
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卒業後は団体(油糧砂糖配給公社)職員となるも俳優を志し[2]1950年創芸小劇場主宰を経て劇団文化座に加入後、1951年春勧誘されていた新東宝に入社[2]。芸名はこの新東宝時代に付けられ、「新東宝が勝手に(芸名を)決めていた」と語っている[9]。丹波の態度が大きいことが問題とされ[2]、1年以上役が付かないでいたが[2]1952年電通傘下DFプロダクション制作新東宝配給のセミドキュメンタリー映画『殺人容疑者』に主演級の役でデビューする。もともとこの役は当時文化座に在籍していた山形勲にオファーがあったものだが、山形が骨折しており応じられないことを丹波が代わりに伝えに行ったところ、プロデューサーから「お前が良い。お前に決めた」と言われ決まったものであった[10]1961年

陰のある二枚目としておもに敵役悪役で活躍し[3]、1956年公開の柳家金語楼の主演映画『金語楼の兵隊さん』の助演をきっかけに金語楼劇団へ誘われ舞台の客演もこなす多忙な状況だったが[11]1959年、丹波の「新東宝の作品のレベルが落ちている」との発言が記事となり、新東宝社長・大蔵貢は謝罪すれば許す考えでいたが[2]、丹波は所信を曲げず、映画『双竜あばれ雲』を最後に同6月新東宝を退社[2]フリーランスとなり、フジテレビディレクターだった五社英雄に見いだされるとコンビを組み[2]、1960年に放送されたテレビドラマトップ屋』、1961年にはニュー東映で映画『霧と影』、『白昼の無頼漢』に主演した。五社とは盟友となり、1969年の映画『御用金』にも出演している。

映画『豚と軍艦』(1961年)、『丹下左膳』(1963年)、『暗殺』(1964年)、1963年テレビ時代劇三匹の侍』などでスターとしての地位を確固たるものとし[3]、荒くれ者の漁師に扮した『ジャコ万と鉄』や、時代劇映画ギャング映画任侠映画など、幅広く出演している。早くから海外の映画作品にも出演しており、1961年にはキャロル・ベイカー主演のアメリカ映画『太陽にかける橋(英語版)』、イギリス映画の『第七の暁』(1964年)、そして世界的なヒット作『007は二度死ぬ』(1967年)で国際的に認知され海外においても活躍した[3][注釈 2]

1968年から1973年まで放映されていたテレビドラマ『キイハンター』では黒木鉄也で主演した。黒木のイメージは『007は二度死ぬ』で丹波が演じた、タイガー田中の人物像も反映させている。最盛期の『キイハンター』は視聴率30%を越える人気ドラマとなり、当初1年の予定が5年に延ばされた[13]。『キイハンター』終了後も、丹波は同時間帯でテレビドラマ『アイフル大作戦』『バーディ大作戦』『Gメン'75』と出演して、TBS土曜21:00の顔となる。

前後して1973年には映画『人間革命』で毎日映画コンクール男優演技賞受賞。1974年には映画『砂の器』の今西刑事役では、人情味のある重厚な演技が高く評価された[3]1978年原田雄一との連名で映画『砂の小舟』を製作(日本公開は1980年)、カンヌ国際映画祭にも出品された[14]1973年、「丹波プロダクション」設立。

1980年の『二百三高地』で第23回ブルーリボン賞助演男優賞と第4回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞をそれぞれ受賞した。

生涯の研究分野であった「死後の世界」を描いた映画を作成・出演し[3]、300万人以上の動員を得る。1994年11月には舞台で「大霊界」を表現し、映像では得ることのできない空間を表現し話題を呼ぶ。「霊界はすばらしいところ」と発言していた。

2000年、『十五才 学校IV』で日刊スポーツ映画大賞助演男優賞を受賞し、大河ドラマ利家とまつ』(2002年)、『義経』(2005年)などで、渋みある演技をみせていた[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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