丸山正雄
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もともとはマッドハウス時代に担当した片渕監督の『マイマイ新子と千年の魔法』の後で次の作品として企画されていたのを引き継いだもので、設立当初からスタジオには、片渕須直監督作『この世界の片隅に』の制作ルームが置かれていた[2][8]。しかし、資金が全く集まらず、制作は難航したが、2016年にようやく公開されると、日本国内では最長となる1133日連続ロングラン上映となり、累計動員数210万、興行収入27億円を突破するヒット作となった[2][21]。MAPPA制作の最初のアニメ『坂道のアポロン』では、マッドハウス時代から何か一緒にやろうと話をしていた渡辺信一郎に声をかけた。当時、3年ほど仕事をしていなかった渡辺に、「君のような人が3年も仕事していないのは良くない」と監督を薦めたところ、「大塚学と組みたい」と言ってきたので、プロデューサーとして大塚もMAPPAに来ることになった[19]

2016年4月、プリプロダクション専門のアニメ制作会社・スタジオM2を設立する[22]。MAPPA代表取締役の座を設立メンバーの大塚学に譲って自身は会長に退くと、新たに立ち上げたスタジオM2の社長に就任した[2][3][注 5]

2022年6月19日、81歳の誕生日でもあるこの日に生前葬を行った[23][注 6]
人物

日本のアニメ業界の黎明期からプロデューサーとして活躍している一人であり、「マッドハウス」や「MAPPA」など、有名アニメスタジオの設立者としても知られる[26][27]。50年以上にわたって日本アニメの第一線に携わり続け、多くのクリエイターの才能を見出し、作品を企画・プロデュースすることで業界を支えてきた[1]

丸山のプロデューサーとしての能力はアニメ業界随一と言われ、川尻善昭監督の『妖獣都市』『獣兵衛忍風帖』『バンパイアハンターD』、今敏監督の全作品(『パーフェクトブルー』『千年女優』『東京ゴッドファーザーズ』『パプリカ』)、細田守監督の『時をかける少女』『サマーウォーズ』、片渕須直監督の『マイマイ新子と千年の魔法』『この世界の片隅に』など、ヒットメーカーたちの代表作・出世作を企画・プロデュースしている[28][29]

特に人材の才能を見抜き、起用する力はずば抜けており、彼がピックアップして世の中に送り出した才能としては、前述の今敏、細田守、片渕須直らがいる[28]。2010年に他界した今敏については、全劇場作品にプロデューサーまたは企画で関わっており、亡くなる直前まで制作を進めていた映画『夢みる機械』でもプロデューサーを務めることになっていた[19]。細田には、スタジオジブリの『ハウルの動く城』の監督降板で挫折して東映アニメーションも辞めることになった後に、フリーになって最初の劇場作品の監督のチャンスを与えている[注 7]。またMAPPAは、片渕監督の『この世界の片隅に』をどうにかして世に出そうと設立したものだった[31]

それ以外にも、湯浅政明(『ケモノヅメ』『カイバ』)、磯光雄(『電脳コイル』)などにかなり早い時期に監督のチャンスを与えている[28]。また、MAPPAの主力監督となった境宗久(『ゾンビランドサガ』)、朴性厚(『呪術廻戦』)、マッドハウス時代の直弟子である山本沙代(『ユーリ!!! on ICE』)も丸山に才能を見出された人間であり、この丸山の名伯楽としての能力がそのままアニメ制作会社としてのマッドハウスやMAPPAのパワーの源泉や躍進の原動力となっている[28]

手塚治虫については、「カルチャーショックを受けた人。それまで出会ったことの無い、常識の範疇では考えられない人物」「無茶苦茶な人でした。その時その時、自分が良いと思ったようにやろうとするから、昨日と今日で言うことが違う。だから指示を受ける側としては腹が立つこともあった。でもそうやって完成したものが、説得力があってものすごく面白いわけです」と回顧し、その魅力に取り付かれたせいでアニメーションの世界から抜けられなくなったと語っている[6][7]

マッドハウス初期に大きな影響を受けたクリエイターに、出崎統監督と平田敏夫監督の名前を挙げ、「スタジオの両輪だった」と語っている[32][33]

大友克洋を彼がキャラクターデザインを担当した映画『幻魔大戦』(1983年)の後でアニメの実制作に誘い、オムニバス映画『迷宮物語』の一篇「工事中止命令」でアニメ監督デビューに導いた[34]


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