丸の内
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山手線西側の新宿副都心西新宿)などが台頭し、1997年8月3日に「漂流するオフィスビル超一等地――黄昏の街、丸の内」という特集が『日本経済新聞夕刊9面[12]で報じられるなど、かつては地盤沈下が指摘された。2000年代に入ってからは上記のように丸ビルなど老朽化したビルの建て替えや、地区の中心を南北に通る丸の内仲通りにある高層ビルの低層階に高級ブランド飲食店を誘致するなど商業機能を強化し、三菱地所主導の再開発で盛り返している[注釈 1]。また東日本旅客鉄道(JR東日本)主導で東京駅も東京ステーションシティとして再開発を行なっており、地下にある駅ナカ商業施設が充実している。

三菱地所の調査によると、再開発に伴い丸の内では、店舗数が約280店(2001年)→約870店(2017年)、土日の訪問者数は約4万6000人(2002年)→約11万4000人(2016年)と大幅に増えた。ビルの建て替えや店舗の増加で街全体の魅力が高まり、企業の転入・回帰も進んだ。2014年時点の事業所数は約4300(1996年比で1.2倍)、従業員総数は約28万人(同5万人増)となった[13]

大手町・丸の内・有楽町をあわせて、大丸有とも呼ばれる。無料巡回バスである丸の内シャトルが本地区を中心に、大手町地区から有楽町地区までの範囲を周回している。
歴史

徳川家康1590年江戸城を居城とする前は、東京湾の一部で日比谷入江と呼ばれていた。1592年からこの入り江が埋め立てられて江戸城が拡張された。新たに外堀が作られ、外堀であったものが内堀となったため、御曲輪内(おくるわうち)と呼ばれるようになった。親藩譜代大名の屋敷が24あまり建設され、大名小路と呼ばれた。南北町奉行勘定奉行の奉行所、評定所も置かれた。外堀には要所に橋が架けられて通行できるようになっていたが、見附(見付)と呼ばれる見張り付きの城門が設置されて厳しく監視されていた。丸の内は基本的に「武士の街」であり@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}江戸の町人にとっては近寄りがたい所だったと思われる[要出典]。

明治維新後に大名屋敷は取り壊されて官有地となり、陸軍の兵舎・練兵場などになった[11]。陸軍兵営が移転した後の1890年三菱の2代目当主・岩崎弥之助に150万円[要出典]で払い下げられた[11]。当時の丸の内は草の生い茂る原野と化しており、三菱ヶ原と呼ばれた。1894年に丸の内最初のオフィスビルである三菱一号館が竣工、これを皮切りにロンドンロンバード街に倣った赤煉瓦街が建設され、一丁倫敦(いっちょうろんどん)といわれるようになった[11][10]。三菱の手でオフィス街が築かれた[11]この地区は、現在に至るも三菱グループ各社の本社や三菱地所所有のオフィスビルが集中する。

三菱一号館の竣工と同じ1894年、高知藩屋敷跡地に東京府庁舎(のちの東京都庁舎)が完成した。1911年に鳥取藩屋敷跡地に帝国劇場1914年三河吉田藩美作津山藩上総鶴牧藩の屋敷跡地に東京駅1923年岡山藩屋敷跡に丸の内ビルが完成するなど、急速に発展した[11]。また、東京駅の開業を皮切りに行幸通り周辺に建設、約30mの高さで規制されていたアメリカ式大型ビルの町並みをニューヨークに倣って一丁紐育(いっちょうにゅーよーく)と呼ぶようになった[11][10]

第二次世界大戦直後、丸の内のオフィスビル連合国軍最高司令官総司令部に接収されたため、追い出された企業の多くが東京駅をはさんだ八重洲に拠点を求めた。このことにより東京駅の乗降客数で比較した場合、一時的に八重洲口側の乗降客数が丸の口側を逆転した時期がある。八重洲側の急激な開発は連合軍の接収が解除されるまで続いた[14]

1957年新大手町ビルヂング建設にあたり、三菱地所が借地権者であるザ・ファースト・ナショナル・シティバンク・オブ・ニューヨークの仮移転先に三菱仲5号館跡の仮設建物を提供しようとしたところ、「赤煉瓦街はニューヨークスラムであったハーレムを連想させる」として難色を示した。これを受け、三菱地所は丸の内仲通りを拡幅して裏通りの私道を廃し、赤煉瓦街の19棟の建物を解体して8棟の大型ビルに集約する「丸ノ内総合改造計画」を始動させた[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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