丸の内ルーブル
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連合というのはイニシアティブの取り合いで内紛を起こしやすく、東宝は「岡田のスタンドプレイを期待し高みの見物」と書かれたものと[9]、「松竹は仕方ないが東映の入るのを拒もうと画策したが朝日新聞社が噛んでいてダメだった」と書かれた文献がある[8]。また東急レクはそれまで東急グループのお荷物と呼ばれる存在だったが[17]、東急グループの総帥・五島昇の兄弟分である岡田の社長就任で会社の地位も浮上し社員のやる気も上がった[17]。STチェーンが強くなるに連れ『E.T.』など、いい映画も獲得することができ[20]、ヒット作が続出した1983年12月期には、前年対比52%増と東急レク創業以来最高の成績を挙げ、売上高176億5000万円と、一興行会社としては空前の成績を残した[20]。五島昇が1984年5月、日本商工会議所会頭に就任し[21]、五島は元々、大谷竹次郎の時代から歌舞伎座役員[22]、この関係で1970年代から松竹の役員になり[23]、取締役相談役として[24]今里広記取締役相談役と共に1984年2月に当時の大谷隆三松竹社長が放火事件を起こした際も紛争回避に動き[24]、後継社長問題を円満に終結させた[24]。1985年末に五島は松竹の個人筆頭株主[25]、1989年6月には岡田が東京急行電鉄の取締役に就任し[26][27]、増々、五島=岡田の影響力が増した。

当初は東映の劇場を建設予定であったが[6]、岡田は自身がイニシアティブを執ってSTチェーンで内紛を起こしては、TYチェーンの思う壺と、松竹、東急レク、東映の三者連合の結束が先決と判断し[9]、東映と東急レクを提携させ[2][3]資本金1000万円(東映70%、東急レク30%、岡田茂社長)で[1]、テイ・アンド・テイ映画興行を設立し本劇場が開館した[4]。東映は近くに丸の内東映があるが有楽町は初進出[28]。東急レクは、渋谷新宿を中心に都内一等地に大型の劇場チェーンを持つ興行会社だが、銀座有楽町日比谷地区には劇場がなく、待望の有楽町進出だった[28][29]

「丸の内ルーブル」という館名も岡田の命名[30]。オープニング上映作品も岡田が『イーストウィックの魔女たち』を選んだ[4]
歴史

1987年10月3日:「テイ・アンド・テイ映画興行」の運営・経営により開館。

1988年1月23日:『ラストエンペラー』(松竹富士配給)封切。劇場の知名度を一気に上げる[28]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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