中選挙区制
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戦後の中選挙区制の区割および定数は、1946年の臨時人口調査をもとに定められた。しかし、戦災復興による疎開人口の帰還およびその後の高度成長による、都市部への大規模な人口移動がおこったため、早くから議員一人あたりの人口の不均一、いわゆる一票の格差が問題となった[13]。1950年に成立した公職選挙法は、法律施行の日から五年ごとに、直近に行われた国勢調査の結果によって更生するのを例とするとしたが、実際に、定数の是正が行われたのは1964年が最初である。

1964年の定数是正は、第二次選挙制度審議会の答申に沿って行われた。この答申の方法は、全国平均議員一人あたり人口から大きく乖離する選挙区の定数を増減させるだけで、人口と定数の逆転などを放置するものであり、抜本的な是正策ではなかったにもかかわらず、その後の定数是正においても踏襲された[14]。選挙制度審議会は、抜本的な改正案を答申しなかった理由として、原則的な方法は定数の著しい変動をみることになるので、選挙区制についての結論をみない段階においては実際的ではないと説明した[15][16]。選挙制度審議会が抜本的な定数是正を答申しなかった背景には、選挙制度審議会は、中選挙区制の下での定数の大幅是正よりも、小選挙区制導入を主とする「区制改革」を重要視する委員が多かった事があるという指摘がある[17]

その後、1975年に「20増」、1986年に「8増7減」、1992年に「9増10減」の是正が行われたが、これらは選挙制度審議会の答申を受けたものではない。
例外的定数

戦前の中選挙区制は定数是正は行われなかった。1945年に樺太・朝鮮・台湾に1人区を含めた選挙区を設ける法改正が行われたが[18]、選挙は実施されなかった。その結果戦前の中選挙区制は、すべて3?5人区で実施された[19]

戦後の中選挙区制は、当初は3?5人区のみで構成されたが、1953年の奄美群島本土復帰によって例外的に一人区 (奄美群島選挙区)が置かれた。また、1986年の8増7減によって、2人区が4区、6人区が1区設けられた。さらに、1992年の9増10減によって、2人区が8区、6人区が8区に増加した[19]
政治的帰結
戦前の二大政党制

戦前は政友会民政党の二大政党が、中選挙区制の下で過半数の議席を争い、政権交代を繰り返した。川人貞史によれば、候補者擁立の失敗や票の均等化の失敗は、二大政党に互いに相殺される傾向にあったのに加えて、1930年台は支持率の増減が激しかったので、それほど大きな問題にならなかった[20]
55年体制

55年体制において一強政党であり政権与党であった自民党は、高度に集権化された政党ではなかったため、支持者からの票を候補者間で均等に票割りすることは困難であった。このため、同党の公認候補が選挙区に2人以上いると、特定の候補者のみに票が集中してしまうことがしばしばあった[21]完全連記制制限連記制単記移譲式投票も参照)。

これについて、J・マーク・ラムザイヤーフランシス・ローゼンブルースは、選挙区内での集票の棲み分けを図るために、個人後援会と自民党部会を通じた特定業種への利益誘導によって、各候補が特定の有権者を囲いこむ戦略を自民党は採用したという[22]。しかし、川人貞史は、自民党は過剰公認をコントロールすることは出来たが、得票の不均等配分を是正することはできなかったとし、ラムザイヤーとローゼンブルースはそもそも事実を誤認していると指摘している[23]

野党については、日本社会党は過半数の候補を立てたのは大選挙区制を含めて3度だけだったが、1960年代までは1選挙区で複数候補を擁立した例は多かった。しかし田中善一郎[24]、自民党候補者は当選回数を重ねるごとに強くなっていくのに対し、社会党候補者は当選回数と選挙の強さの相関がほとんどなく、党の看板に頼った選挙戦だったと結論づけている。社会党は1970年代以降、大部分の選挙区で単独擁立が常態となり、共産党民社党公明党といった他の野党も、一部例外を除いて1選挙区で複数候補を立てる力はなく、一党をもって過半数を狙える勢力には成長しなかった。
復活論衆議院議員総選挙における自民党の議席占有率(棒グラフ)と得票率(折れ線グラフ1996年の総選挙から小選挙区比例代表並立制が導入され、その結果、第一党の議席占有率は得票率をはるかに超えることとなった。自民党は毎回、比例代表で3割弱から4割弱の票しか獲得できていないものの、2005年2012年2014年の総選挙では6割を超える議席を獲得している。

一人のみ当選する小選挙区制度では、一定以上の得票率で著しい議席占有率を得ることで大政党に偏って有利になることに加え、増加傾向にある無党派層の動向によって議席が極端に振れてしまうことで、長期的視点に立った政治ができない、といった批判が次第に高まることになった。実際に第44回総選挙2005年)、第45回総選挙2009年)、第46回総選挙2012年)、第47回総選挙2014年)、第48回総選挙2017年)と5回連続で、一つの政党が総得票率50%未満の状態で小選挙区議席数の3分の2以上を占める結果となっている(右グラフも参照)。又、小選挙区で次点にもなれなかった候補者や低惜敗率の候補者の比例復活等も問題になっている[25][26]

こうした状況を踏まえ、2011年渡部恒三加藤紘一を世話人とする「衆院選挙制度の抜本改革を目指す議員連盟」が発足した。同連盟は中選挙区制(大選挙区非移譲式単記制)を復活を目指すものとされ[27]、この議員連盟の会合において、河野洋平衆議院議長は、かつて自民党総裁時代に野党党首として小選挙区比例代表並立制の導入に協力したことについて「率直に不明をわびる気持ちだ。状況認識が正しくなかった」と発言した[28]。また、小選挙区比例代表並立制は妥協の産物であり、細川護熙と同様[29]、当時から中選挙区制限連記制を支持していたという[30]小選挙区比例代表並立制の採決の際の造反議員を処分した日本社会党(現・社会民主党)は、2006年に処分された議員の名誉回復をおこなった。

このほか、新党改革次世代の党などの小規模な政党が中選挙区非移譲式制限連記制の復活を主張した[31]園田博之武村正義野中広務は、政党内での共倒れを防ぎ、政党同士が政権を争える案として、2名の制限連記式の中選挙区制の導入を主張している[32][33]公明党は、自自公連立の際に中選挙区制復活論を主張したが[34][35]、政権下野後は比例代表を重視した選挙制度を主張した[36][37]
脚注^ a b c (川人貞史 2000)
^ 村瀬信一「選挙法改正問題と伊藤新党」史学雑誌108-11 1999年
^ 朝日新聞1898年5月24日東京/朝刊 1頁 5段
^ 朝日新聞1900年3月25日 東京/朝刊 1頁 4段


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