原因となったカンボジア・ベトナム戦争と併せ、ベトナム独立戦争とベトナム戦争・ラオス内戦・カンボジア内戦に続く「第三次インドシナ戦争」とも呼ばれている[3][4][5]。
1979年に中国人民解放軍がベトナム国境3カ所から攻勢を仕掛けたことから始まった[6]。戦争勃発の理由は、直接には領土紛争をめぐって起こった事件への制裁であるが、背景には中国の支援を得ていたクメール・ルージュを崩壊させる為にカンボジアに進攻したベトナムに対する懲罰であった。[6]中国軍は一時的にベトナム北部の主要都市を占領するが、後にベトナム側の対抗に苦戦し撤退した[1]。
その後中越両国は関係改善の兆しを見せ、1991年には両国関係を正常化した。しかし西沙諸島や南沙諸島等では両国の領土問題は改善されず、両国間の問題も残った[1]。 ベトナム戦争(1965年 - 1975年)終結直前、ベトナムの隣国カンボジアでは1975年4月にロン・ノルの親米軍事政権が倒れ、1976年1月にポル・ポト率いるクメール・ルージュが政権を奪取し、民主カンプチアの成立を宣言した。 ほぼ同時期に成立した統一ベトナムは、実質上北ベトナムが南ベトナムを併呑したものであり、そのベトナムは隣国ラオスとも軍事同盟を結んでベトナム軍を駐留させた。 一連の行為はカンボジアから見れば、北ベトナムが着々とインドシナ全域へ支配領域を広げているかのように解釈され、次はカンボジアが併呑される強い危機感があった。 またフランス支配以前の両国はメコンデルタの領有権を争っており、旧来からの因縁があった。結果、両国間では対立が激化し、1978年1月に国境紛争によって国交を断絶した。同年4月18日には越境しベトナム国内に侵入したクメール・ルージュの部隊が2週間に渡り3157人の住民の殆どを殺害したバチュク村の虐殺事件を起こした。 ベトナムはカンボジアから亡命していたクメール・ルージュの軍司令官ヘン・サムリンたちを支援するという形でカンボジアに侵攻し、1979年1月にプノンペンを攻略、ヘン・サムリンによる親ベトナムのカンボジア政権を樹立した。 ポル・ポトは密林地帯に逃亡しポル・ポト政権は崩壊した。カンボジア側からすれば、ベトナムがインドシナの覇権を握る野望を持っているのではないかという危惧が、現実のものとなったのである。ちなみに、同じ危惧をタイをはじめとする東南アジア諸国も、人口の多いベトナムに対し抱いており、ベトナムのカンボジア侵攻を非難し、カンボジアを擁護していた。 一方、当時のベトナム政府にとっては、カンボジアとの未確定の国境問題、ポル・ポト政権が、カンボジア領内のベトナム系住民への迫害を含む恐怖政治を行い、小規模だが繰り返されるベトナムへの侵攻・挑発は看過できないことであった。 ポル・ポト政権は政権を握ったポル・ポトらが思想的に毛沢東思想を信奉したこともあり、ソ連ではなく、中国から支援を受けていた[7]。 当時、3つの世界論からソ連を敵視した中国は、中ソ国境紛争ではソ連軍と交戦するなど対立関係にあった(中ソ対立)。 中国にしてみれば、第一次インドシナ戦争とベトナム戦争で毛沢東時代の中国から支援を受けたベトナム政府が中国から援助された武器も使って、中国の友好国であるカンボジアのポル・ポト政権を崩壊させたことは、「恩を忘れた裏切り行為」であった。 また、統一ベトナム成立後の社会主義化政策が旧南ベトナム地域の経済で力を持っていた中国系住民(華僑、華人)の国外脱出を促し、周辺国が難民を受け入れざるえなくなったことで、周辺国のベトナムへの不信や反感が高まったこと、さらに行き場のない難民が多数、同じ社会主義国であるにもかかわらず中国にも結果的に逃げ込もうとしてきたことから、受入れをめぐってベトナムと紛糾することになったことも中国を戦争に駆り立てることになった[8]。 また、帰属する領土をめぐってベトナムと中国の間に違いがあり、双方が自国領土に相手国兵士が侵入してきた、相手国軍が自国領土に対し銃砲撃を加え挑発行為をしてきた、死傷者が出たと非難し合い、そのたびに緊張が高まっていた。 1978年10月20日には、中国軍が越境してベトナム側の集落を攻撃、民家1000戸以上を焼き払い、略奪を行うなど[9]ベトナム侵攻の予行演習的な動きも見せた。 さらに1978年11月3日にベトナムがソ連とソ越友好協力条約を結んだことも中国を刺激し[10]、中国にとってソ連の同盟国支援を試す狙いも中越戦争にあった[11]。中国はソ連との直接戦争にも備えてソ連との国境から警報で民間人を避難させ[12]、大部隊を駐留させて開戦の準備も着々と進めていた[13]。 中国の計算通りソ連はベトナムを支援するも直接軍事介入に出ることはなかった[14][15][16]。ただし、示威行為のためソ連の水上艦が黄海に入っている。 1979年1月28日から2月5日にかけてアメリカ合衆国を訪問したケ小平はベトナムに懲罰的軍事行動を行う用意があることをアメリカ合衆国大統領のジミー・カーターに示唆していた[8]。 2月16日にソ連との軍事同盟であった中ソ友好同盟相互援助条約は期限切れとなり、ケ小平はアフガニスタンとモンゴル人民共和国からのソ連軍の撤退などを受け入れない限り条約を更新しないことを表明した[17]。 海外の多くの中国・ベトナム2国間関係の専門家が、戦争になれば、当時のソ連に支援された近代兵器を持つベトナムに対し中国軍は犠牲を厭わず人海戦術をもって攻撃を行い、友誼関からランソンまで攻め込み、ランソンを落とした後は、いったん軍を自国が領土と考える位置まで引揚げ、そこであらためてベトナムと話し合いに入るであろうと予想した。ランソンは、ここを落せば後はなだらかな平野が続き、一瀉千里に首都のハノイまで攻め込むことの出来る戦略上の要衝であり、ここを落すことによって、中国はハノイを確実に落せるだけの意志と力があることを示したことになると考えられていたためである。 1979年1月1日以降、中国は56万人の兵隊をベトナム国境に集結し威圧を開始。2月15日、中国共産党最高機関の中央委員会副主席ケ小平は「同盟国カンボジアへの侵攻と同国内の中国系華人の追放(ベトナム側はこれを否定)」を理由とし、「ベトナムに対する懲罰的軍事行動」を正式発表し、宣戦布告する。 次いで2月17日、中越国境地帯全域から1500門の重砲による砲撃の後、ラオカイ、カオバン、ランソン各市占拠を第一目標として、10個軍30万名からなる軍勢をもって西部・北部・東北部の三方面からベトナム国境を侵犯した。 中国ではこの戦争と80年代の国境紛争とを併せて「対越自衛反撃戦」と呼び、ソ連・ベトナム連合の侵攻を恐れての行動と主張している。
概要
戦況推移