中華連邦主義
[Wikipedia|▼Menu]
共産党は1945年から1946年末までの国共会談期間中、将来の中華民国憲法連邦制を採用を主張し、
省憲法を制定できるよう明確に規定すること。

中華民国総統は省議会から選出を行うこと。

の2点を要求した[17]

国共内戦勃発後、中国国民党が主催する「中華民国憲法」に省県自治が規定され、各省で自治法を実施可能となったが、連邦制の採用はされなかった。

1947年初め、中国共産党中央書記処事務局長だった周恩来延安で、現在の憲法は地方自治を制限しており、独裁的だと非難した[18]
内モンゴル自治政府内モンゴル自治政府の政府旗

1947年、中国北東部で成立した内モンゴル自治政府は、連邦制度の下で自治実現を目指した。

1947年10月の内蒙自治報の記事では、次のように述べられている。

「内モンゴルの革命は三段階に分けられる。最初は自治運動の段階で、自治政府が設立される前、次は内モンゴル自治政府設立の段階、最後は将来の「自由な連邦」の段階である。...内モンゴルの人々が同意すれば、漢民族および他の少数民族の連合である「中華連邦共和国」に基づいて、中央政府を形成できる。」

また自治政府の「政府網領」の規定の中でも、次のように記載されている:

「内モンゴル自治政府は、内モンゴル全てのモンゴル民族によって内モンゴルの高度な自治を実行する民主的な政府である。中国の自治区は中華民国の一部であり、内モンゴル自治政府はモンゴル人民の土地所有権を完全に保護し、牧草地を保護しています。...漢人とモンゴル人の土地関係を合理的に解決、賃料の減額、増資、相互扶助活動を実施し、人民の経済生活を改善する。また独自の土地政策と独立通貨を発行する権利を有する。[注釈 1]。」

内モンゴル自治政府設立前、ウランフ地方憲法郷土防衛隊、国家正規軍の中に少数民族などで構成された軍団を組織する権利を有した。[19]

自治政府は高度な自治を実行するため、次の指標を掲げた。
土地の所有権を有する。モンゴル自治政府政策綱領では「モンゴル国土の完全性が保護され、牧草地を保護し、自治地域の他民族地の既存権利を保護する。」と明確に規定されている。モンゴル人は土地を私有化せず、貴族及び平民の共有であり、綱領には「総有権(土地は公有や国有ではなく、モンゴル民族全体で所有する)」という用語が登場する。

自治地方軍隊を有し、部隊名は「内モンゴル人民自衛軍」とする。 「綱領」には次のように規定された。「内モンゴル人民自衛軍を発展させ、人民自衛軍は国民に忠誠心を持ち、国民に忠誠心を持ち、政府を支援しなければなならない...」

政府旗を有する。自治政府は独自の旗を掲げた。政府旗は赤、青、赤の横3色で構成され、青の中央には十字のがあり、その上に紅の星がデザインされている。鍬はモンゴルの農民(他民族の農民を含む)を表し、鞭はモンゴルの遊牧民を表す。赤は革命を、青はモンゴル人を象徴している。紅の星は内モンゴル人民革命党を前身とする内モンゴル共産党作業委員会を表している。

中華人民共和国時代

1949年の中華人民共和国設立後、中国本土は単一国家の政体を採用した。

中国共産党はそれまで自身が提唱していた民族地区の連邦制に反対して民族区域自治を実施、ダライ・ラマ14世チベット自治計画は国家分裂を企んでいたと主張した。

香港マカオの返還、さらに台湾の帰属問題が浮上すると、特別行政区を設置する一国二制度を解決策として提示した。

1983年、ケ小平主任が楊力宇と会談した際、台湾問題に関する彼の主張は、ケ六条(中国語版)と一国二制度にまとめられていた。

ケ小平の「一国二制度」は連邦システムに由来すると非難されて以降、連邦制や統一のために中華人民共和国の国号変更議論は公式にはされていない。

中国連邦主義の議論は文民レベルのみで、政府公式の見解は出ていないが、中国当局者は長年に渡る台湾問題の解決策として「どんな議題でも、一つの中国の原則の下で議論できる」という見解を提示している。

2002年に江沢民総書記は、3つの可能談(中国語版)を提言した。2012年には、国務院台湾事務弁公室広報官范麗青(中国語版)は、「1つの中国を堅持する限り、台湾問題について議論することができる。」と回答した[20]が、統一に向けての公式議論はほぼ行われていない。

2009年12月25日、北京第一中級人民法院は反体制派の国家転覆扇動したとして、劉暁波有期刑11年、更に2年間政治権利剥奪を言い渡した。一審の判決文で[21]劉暁波の零八憲章の中に多数の国家転覆の扇動の意図が見られ、特に「民主的な憲法の枠組みの中で中華連邦共和国を設立」という部分を非難した[22][23]
現代の連邦制構想
中華連邦共和国 中華人民共和国(紫)および 中華民国(オレンジ)実際の管轄区域。 中華人民共和国が中国本土香港マカオを支配、中華民国が台湾支配している。島は実際の大きさではなく、識別しやすくマークされている。

中華連邦共和国は、中国共産党第二次全国代表大会(中国語版)における「自由な連邦主義の下、統一中国本部、モンゴル、チベット、回疆で構成される中華連邦共和国の建国」で初めて提唱された[24]

中国共産党第七次全国代表大会(中国語版)においては、「国民の闘争との自由連想の革命的な階級連盟の独立、自由、民主主義、統一と繁栄は新しい民主主義連邦共和国の樹立」が改めて表明された[25]

1991年3月1日、台湾立法委員の朱高正(中国語版)は、「中華社会民主党」を設立し、中華連邦共和国の設立と責任内閣制実施を提唱した。

1994年、中国本土から亡命した嚴家其(中国語版)などは、「中華連邦共和国憲法(草案)」を発表した[26]

1998年2月、 中国民主化運動支持者の一部は「中国民主主義正義党」を組織し、大中華連邦共和国の建国を提唱した[1]

2008年、中国の反体制派劉暁波零八憲章民主主義的な憲法下での中国連邦共和国の設立」を主張した。

「18、連邦共和:平等・公正の態度で(中国周辺)地域の平和と発展の維持に参加し、責任ある大国のイメージを作る。香港・マカオの自由制度を維持する。自由民主の前提のもとに、平等な協議と相互協力により海峡両岸の和解案を追求する。大きな知恵で各民族の共同の繁栄が可能な道と制度設計を探求し、立憲民主制の枠組みの下で中華連邦共和国を樹立する。」

中華連合共和国中華連合共和国がモデルとしているタンザニアの行政区画

この名称は「United Republic of China」に由来し、中華民国国防部元副代表林中斌(中国語版)によって提唱された。2004年発表時においては、詳細な部分までは説明されなかったものの、タンザニアをモデルとしているものとされた。タンザニアは東アフリカ大陸部のタンガニーカと、インド洋島嶼部のザンジバルから構成され、ザンジバルは中央政府から強い自治権を確保したザンジバル革命政府によって統治されている。この方式を採用することで、両政権に平等な新国家を形成することが可能と主張されている[3]

2011年1月、オーストラリアシドニーの南天寺(英語版)で「南天会談」が開催された。北京大学国際関係学部国際政治学部長の李義虎は、タンザニアとタンガニーカの「1つの国、2つの憲法」の関係について、「1つの中国、2つの憲法」成立の参考となると言及した[27]

2011年2月、香港の「中国評論」は、吉林大学哲学科の修士課程学生の王貞威の論文を掲載し、タンザニア式の実現可能性を議論した[4][28]
現在の連邦制構想
中華国連

中華国連は1982年、後に台湾立法委員となる張旭成(中国語版)によって提案された。彼は、中華国連内で両政権を併存させ、経済や外交関係を確立させられると主張した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:50 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef