中華街
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中東のチャイナタウン

アフリカのチャイナタウン

日本の中華街神戸南京町
日本三大中華街

横浜中華街神奈川県横浜市中区山下町) - 日本最大級の中華街。

南京町兵庫県神戸市中央区)- 南京町商店街振興組合の登録商標となっている。

長崎新地中華街長崎県長崎市

その他の著名な中華街
池袋

東京都豊島区池袋池袋駅北口近辺には、1980年代の改革開放以降[1]に来日した中国人の経営する中国人向けの店が約200店舗[4]存在する(駅北口以外の西口周辺なども含めると300-400店舗[4]、また全業種を合わせると600店舗[5]とも言われる)。地理学者の山下清海はこれを「池袋チャイナタウン」と命名し[6]、書籍や新聞雑誌等で紹介している[7][8][9]。池袋のチャイナタウンは店舗数では横浜中華街を上回るのではないかという指摘もあり[5]、観光客向けの横浜中華街と比較すると、よそ行きでない「日常の中国」[4][5]を味わえる中華街だとも評されている。
西川口

埼玉県川口市西川口駅周辺は2000年代半ばまでは埼玉有数の風俗街として賑わっていたが、摘発を受けて撤退した(「西川口 (川口市)#地理」参照)。その跡地に、賃料の安さから[1]中国人が経営する店が続々開店し、首都圏有数の中国人街(西川口チャイナタウン)となっている。ウイグル料理等の清真料理店も並ぶ[10]
神保町

日清戦争後に多くの清国人留学生が来日し、弘文学院東亜高等予備学校などの教育機関がつくられ、さらに法政早稲田明治などの各私立大学も多くの留学生を受け入れたことにより、現在の東京都千代田区神田神保町には、清末期?中華民国期に多くの留学生が暮らし(周恩来ら)、すずらん通りやさくら通り沿いに何軒もの中華料理店が開業した[1][11]
旧川口居留地

大阪府大阪市西区川口の南東部、旧川口居留地の南に隣接する旧町名・本田一番町 - 三番町のあたりは、1899年の居留地廃止から1937年日中戦争勃発の頃まで中華街の様相を呈していた。第二次世界大戦後は倉庫中心の町に変貌し、現在は数件の老舗中華料理店が残る程度である。
博多津唐房

鴻臚館による官貿易の衰退ののち、北宋南宋の商人や住吉神社筥崎宮など寺院神社荘園領主らの私貿易による日宋貿易の拠点として発展した。平安時代末期から、後世「大唐街」と呼ばれる宋国人街が福岡市地下鉄空港線祇園駅周辺に形成された。異国風の建物が建ち並び、多数の外国人商人が行き交う国際都市となった。宋人は船団を組んで盛んに往来し、次第に博多に居を構え、寺社とも結び付いた。このような宋商人は「綱首」(ごうしゅ、こうしゅ)と称され、鋼首を中心に多くの宋国人が住むようになった。文永の役、弘安の役1274年1281年)によって焼失し、中華街としては現存しないが、福岡市博物館では、「日本最初のチャイナタウン」と紹介している[12][13]
久米

沖縄県那覇市久米洪武帝より琉球王国に下賜されたとされる?人(現・福建省の中国人)などによって構成された、久米三十六姓の人々が多く移り住んできた。


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