中華街
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安全航海を祈るための媽祖と、新開地での安全安定した生活を祈るための土地公を居住地の必須信仰施設とし、商業の発展とともに関帝廟が付加されていった。

19世紀に入り、西洋列強諸国が東アジアに植民地租界を開くと、西洋人居住者への都市サービス提供の機能を担うようになり、関帝廟の重要性が増していった。

中華街に住む中国人を出身地別に見ると、20世紀前半までは広東省出身者(海南島を含む)が多く、次いで福建省出身者であった。近年は福建省出身者が増加し、さらに上海台湾出身者も増えている。

同じ省の出身者といえども、例えば広東省の広東語(広州方言)、台山語、潮州語客家語はお互いに会話が成り立たないほど差が激しいため、別々のコミュニティーが形成されることが多く、同郷会も分かれている。同様に、福建省でも、福州語興化語?南語、客家語は通じ合わないため、別々の同郷会が形成されている。
華人街
歴史

歴史的に漁業や交易のために福建省などの中国南部沿岸地域の中国人たちは南シナ海を越えて、対岸に居住してきた。次第に定住していき、
台湾海峡を渡った澎湖島馬公や台湾の鹿港ベトナムホイアンマレー半島マラッカジャワ島バンテントゥバンフィリピンマニラなどに、現地港市権力の許可を得て居住地を拓いた。16世紀になり、西欧の貿易植民地権力がこれらの港市に到着し、そこに存在していた中国人たちの居住地を”チャイナタウン”と呼んだ[2]。移民中国人たちはオランダイギリスの植民地権力を経済的に支え、その植民地都市にはチャイナタウンは必須の存在であった。東南アジアでは都市自体が大きく成長、変容しても、このチャイナタウン(華人街)の多くは歴史地区として現存している。

空間構成

中国南部沿岸地域の人々は交易や漁業のために海を渡るため、航海安全を祈る媽祖(天后、観音)を船着場の奥に守り神として最初に建設した。移住者は
媽祖廟の右手に居住地を拓き、そこにショップハウスを建設した。居住地の外れには土地の平安を祈るために土地公(福徳祠)を置き、また、広東省出身者たちが移り住んでくると商売繁盛を祈る関帝廟を居住地内に建てていった。このように華人街は信仰に基づく特異な空間構成を持ち、東南アジアでは歴史文化地区として位置づけられ、欧米などに存在するチャイナタウンとは異なる[3]


ホイアン華人街の空間構成(ベトナム, 1991年)

坪洲華人街の空間構成,(香港, 1991年)

ペナンのジョージタウンの空間構成(マレーシア, 1991年)

クチン華人街の空間構成(マレーシア, 1991年)

クチン華人街の天后宮(マレーシア, 1991年)

クチン華人街の土地公(1991年)

世界各地のチャイナタウンチャイナタウン (マンハッタン)

アジア(中東を除く)のチャイナタウン

オセアニアのチャイナタウン

ヨーロッパのチャイナタウン

北米(中米を除く)のチャイナタウン

ラテンアメリカのチャイナタウン

中東のチャイナタウン

アフリカのチャイナタウン

日本の中華街神戸南京町
日本三大中華街

横浜中華街神奈川県横浜市中区山下町) - 日本最大級の中華街。


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