中華民国
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中華民国(ちゅうかみんこく、: 中華民國、注音: ??? ???? ???? ????、ウェード式: Chung-hua Min-kuo、英語: Republic of China[5])は、東アジアに位置する共和制国家実効支配している領土の大半が台湾島であることと、中華人民共和国が「一つの中国」原則を唱えている政治情勢により、「台湾」(たいわん、: 臺灣/台灣)が通称として国際的にしばしば使用されている。現在(1949年以降)の首都台北市

アジアで2番目の共和国[注 3]として1912年中国大陸地区で成立したが、国共内戦中国共産党に敗れて大陸地区から放逐され、1950年[注 4] 以降は台湾省の全域[注 5]福建省の極一部の島嶼台湾地区)、大陸時代には海南特別行政区に属していた東沙諸島南沙諸島太平島中洲島[注 6]実効支配する海洋国家となった。台湾地区は、日本フィリピン中華人民共和国領海を接する。現存する中でアジア最古の共和制国家である。

五権憲法(中国語版)に基づく議会制民主主義資本主義体制国家であり、かつては国際連合安全保障理事会常任理事国として国際社会に大きな影響を与えていた。しかし、中華民国の代わりに中華人民共和国を「中国」の唯一の代表とすると認めるアルバニア決議1971年に採択され、抗議した中華民国政府は国際連合から脱退し、中華人民共和国が「中国」を代表する国家の地位を継いだ。2023年時点では中華民国を正式に国家として承認している国は13か国に留まるが、以前に国交を結んでいた国々との間では、断交以降も経済・文化面の交流が行われている。

日本は1972年日中共同声明により中華人民共和国政府を「中国の唯一の合法政府」と承認して国交を樹立したことに伴い、中華民国政府との国交を断絶した。これによって双方の大使館などが閉鎖された。国交断絶後も民間の実務関係を維持するため、日台相互に非政府組織の連絡機関(日本は日本台湾交流協会、台湾は台湾日本関係協会)をそれぞれ設置して現在に至る。
概要
成立?介石(左)と孫文(右)、1923年。

1912年1月1日に、革命家孫文が臨時大総統に就き、中国大陸を中心とする中国を代表する国家として「中華民国臨時政府」が成立した。

同年2月12日に、清朝皇帝である宣統帝(愛新覚羅溥儀)が退位して、中華民国は名実ともに中国を代表する国家となった。その後袁世凱大総統に就任した(北京政府)。その後、袁世凱を筆頭とする北洋軍閥と対立した孫文は1919年中国国民党を創建し、1923年には後の国民政府の基となる広東大元帥府広州に樹立したものの、1925年に死去した。

1924年には中国共産党との間で第一次国共合作を行ったが、1927年南京事件が起こったことで同年4月に国共合作を解消すると、孫文の後継者となった?介石の指揮下で上海武漢などの各地方で中国共産党員を掃討する運動、いわゆる上海クーデターを起こした。

国民政府はその後、?介石の南京国民政府と、これに反対する汪兆銘らの「武漢国民政府」に分裂(寧漢分裂)するが、間もなく両者は合流、北方軍閥の張作霖日本軍によって爆殺された後、跡を継いだ息子の張学良は?介石の傘下に入り、満洲東北部)は国民政府の支配下に入った(易幟)。
日中戦争

その後、満洲事変を契機に日本の後援により、愛新覚羅溥儀を執政として満洲国が建国された。さらに1937年に起きた盧溝橋事件を契機として、中華民国は日本との全面戦争状態に入った(ただし宣戦布告はどちらからもされておらず、昭和天皇詔勅もなかったので正式な戦争ではなく支那事変と呼んだ)。

これに対抗して日本軍は、国民党の反?介石派であった汪兆銘を首班とした新たな国民政府(汪兆銘政権)を南京に樹立する。その後、西安事件で第二次国共合作が成立した。1941年12月に日本とイギリスアメリカ合衆国などとの間で太平洋戦争が始まり、英米と友好関係にある中華民国は連合国の主要国として枢軸国と対峙。日本に宣戦布告した事で、第二次世界大戦の一部として日中戦争が開戦された。
中華民国の台湾進出

1945年9月2日日本の降伏文書調印により、中華民国は第二次世界大戦での勝利が決定した。主要戦勝国の一国として国際連合の設立メンバーとなり、GHQからの委託に基づき、1945年10月15日台湾に進駐した。

1945年10月25日に台北で日本側の安藤利吉台湾総督第十方面軍司令官が降伏文書に署名し、中華民国は台湾光復の式典を行って台湾省を設置し、台湾の実効支配を開始した。日本が台湾などを中華民国へ「返還」することは1943年12月1日カイロ宣言に謳われているが(現在の中華民国外交部は一貫してこの宣言を受け入れている)、この時点では行政権を中華民国に移譲しただけであり、国際法上、台湾地域は依然として日本の領土であった。台湾光復後の1947年2月28日二・二八事件が発生した。

1945年10月にアメリカの調停で結ばれた双十協定は破綻し、1946年6月から本格化した国共内戦ではアメリカからの支援が打ち切られたことなどが災いして、ソ連が支援する中国共産党に対して劣勢に陥り、1949年初めには中華民国の実効支配地域が縮小し、同年1月に?介石総統は内戦不利の責任をとって辞任して副総統だった李宗仁が総統(代理)となるも中国共産党との北平和談(中国語版)で最終案の国内和平協定に署名しなかったため、1949年10月1日には中国共産党が中華人民共和国を樹立した。
台湾への移転?介石と妻の宋美齢中華民国政府の台湾への移転」および「中国国民党による一党独裁時代の台湾」も参照

1949年12月7日、?介石率いる中華民国政府が、中国共産党に実効支配された中国大陸から、首都機能を台湾省台北市に移転して臨時首都としたことにより、台湾地区(台湾島及び附属島嶼や金馬地区など)のみを実効支配する国家として、1950年までに政府が再編成された。


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