中華民国総統
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中華民国憲法の定めるところにより、中華民国総統は、中華民国を外国に対して代表し、条約の締結及び宣戦講和の権限を行使することができ、国内に対しては、法律公布し、命令を発し、戒厳を宣布し、大赦、特赦、減刑、復権の権限を行使し、文武官を任免し、栄典を授与することができる。また、三軍統帥者であり、全国の空軍を統率する。

中華民国憲法増修条文の定めるところによれば、中華民国総統は、行政院会議の決議により緊急命令を発することができ、立法院行政院長の不信任案を可決した場合は、立法院長(中国語版)への諮問の上、立法院の解散を宣言することができる。また、中華民国総統の権限行使に必要な幕僚機関として総統府、諮問機関として国家安全会議を設置している。

中華民国総統は、中華民国自由地区(台湾地区)の人民による直接選挙によって選出される。任期は4年で、再選は1度に限り可能である。制定当初の中華民国憲法の定めるところによれば、中華民国総統は国民大会による間接選挙での選出であり、任期は6年で、再選は1度に限り可能であると定められていた。その後、1992年の憲法第2次増修で現在の制度に変更された。この制度は1996年中華民国総統選挙から実施され、これまでに8回の総統の直接選挙が実施されており、直近では2024年1月13日に行われた。

現職の中華民国総統は、2024年5月20日に就任した頼清徳である。
名称

中華民国の元首は当初、中華民国大総統だったが、1928年国民政府による中国統一後に中華民国国民政府主席となり、1947年中華民国憲法施行により国民政府が中華民国政府に改組されて以降は中華民国総統となっている[1]

中国語において総統とは日本語大統領と同義の言葉だが、日本では漢字のまま総統とし台湾総統と呼ぶことが多い[2][3][4]。中華民国が日本と国交を有していた時代の日本語の外交文書では、中華民国大統領[5]も見られた。中華人民共和国では1949年の成立以降、一つの中国原則に基づき台湾の中華民国政府を認めていないため、台湾地区領導人(台湾地区の指導者)や台湾当局領導人(台湾当局の指導者)という表現を使う事が多い[6][7]
沿革「中華民国の国家元首一覧(中国語版)」も参照南京で中華民国初代総統に就任した?介石(中央)、右は副総統の李宗仁1948年5月20日

1947年(民国36年)12月25日、第二次国共内戦中だった中華民国は1946年(民国36年)の制憲国民大会で制定された中華民国憲法(以下、別段の注記等のない限り単に「憲法」という)を正式に施行し、国民政府は憲法の定めるところにより、中華民国政府に改編され、中華民国総統が国民政府委員会主席(通称「国民政府主席」)に代わって中華民国の国家元首となり、同時に、予備の元首として中華民国副総統が創設され、総統と副総統が権限を行使するために必要な機関として総統府が設置された[8][9]

1948年4月、憲法の定めるところにより、国民大会初代総統及び副総統選挙が行われ(総統及び副総統選挙は別々に実施)、当時の国民政府主席で[注 6]中国国民党(以下「国民党」という)所属の?介石が総統に当選した(副総統は同党所属の李宗仁[11][12]。1948年5月20日、?介石は中華民国の初代総統に就任した[13][14][15]

1948年4月、第1期国民大会第1回会議(中国語版)が南京で召集され、総統の権限を拡大し、規定の有効期間を2年半とする動員戡乱時期臨時条款(以下「臨時条款」という)が採択された[注 8][9][17][18][19][20]

1949年12月、国共内戦が中華民国政府にとって不利な情勢に転じつつあったため、行政院は緊急会議を開き、中央政府を台北遷すことを決定した。1954年2月、第1期国民大会第2回会議が台北で召集され、3月11日、第2回会議第7回大会で、代表らは臨時条款の効力を維持することを全会一致で決議した[19][21][22]。これ以降、国民大会は憲法上の総統再選制限の凍結や、総統に動員戡乱機構の設立権限を附与することなどを盛り込んだ臨時条款の改訂を4回行った[注 9][9][19][25][26][27][28]

1989年7月、国民大会は5回目となる臨時条款の改訂を決定した。しかし、この改訂内容は国民大会の権限を更に拡大させるものであったがために、立法院や民間の世論に不満を抱かせるものであった[29][30][31][32]。1990年3月、国立台湾大学などの学生らが野百合学生運動を起こし、「臨時条款の廃止」や「国是会議の召集」などの要求を掲げた[33][34]。1990年5月、第8代総統就任直後の李登輝(国民党所属)は就任記者会見で「国是会議を召集し、1年以内に動員戡乱時期を終了させ、臨時条款を廃止して正常な憲政体制に戻す」とした民主化プロセスを公表し、1991年4月、第1期国民大会第2回臨時会議が台北で召集され、臨時条款の廃止提案が可決[9][35]、李が国民大会の表決結果に基づいて1991年5月1日に臨時条款を正式に廃止したことで、動員戡乱時期は終結した[9][36][37][38]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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