中華民国空軍
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1928年10月、全国の軍政は統一され、国民革命軍総司令部航空処は軍政部航空署に改編された[22]。飛機隊2個と水面飛機隊1個を保有していたが、後に航空隊に改称され、5個隊に拡充された[22]。しかし国民政府による統治はまだ不安定で、東北空軍、広西空軍など一部の有力な軍閥空軍は中央空軍に編入されず勢力を温存していた。中でも中原大戦では西北軍空軍が中央空軍と中国史上初の空中戦を展開するなど、大きな脅威となった[23]。加えて1931年5月に陳済棠広州国民政府(第5次広東政府)を樹立すると張恵長、黄光鋭陳慶雲ら中山航空隊以来の古参軍人が離反して同空軍に加わるという痛手を負った。これらの私設空軍は、海外の航空専門家からは「阿片空軍」と呼ばれた[24]

1928年10月、国民政府は空軍兵力の中央人員を養成するため、南京の中央陸軍軍官学校内に航空隊を設立。のち杭州の筧橋に移転し「中央航空学校」を称する。教育はジョン・ジュエット元大佐率いる米国軍事顧問団が担当し、厳格な審査基準で既存パイロットも容赦なくふるいにかけられた。

第一次上海事変では、日本海軍空母加賀」「鳳翔艦載機と3度の空中戦を展開。最初の空中戦では双方不慣れだったため戦果はなく、2回目はアメリカ人義勇兵のロバート・ショート(英語版)が加賀航空隊の生田乃木次に撃墜されるが、3回目は石邦藩ほか1名が加賀航空隊の一三式艦上攻撃機2機を撃墜した。当時、戦闘機はV-65Cコルセア(英語版)やボーイング218、爆撃機はユンカース W33(英語版)やユンカース K47(英語版)等を使用していた。

事変後の1932年春には8個隊にまで拡大するが、同年8月に4個に縮小[22]。1933年、轟炸(爆撃)、駆逐、偵察の3隊が増設され、同時に航空教導総隊が編成された[22]

1933年、満洲事変で拠点を追われた旧東北航空の人員や器材を接収[25]。1933年2月、航空署の全職員は空軍階級に変更[26]。空軍階級は、例えば中校→空軍上尉、中将→空軍上校というように本来より2階級低く設定されたが、待遇自体は元の階級と変わらなかった。また航空部隊は整備され、飛行人員の一部は中央航空学校高級班で再教育を受け、一部の非軍事学校出身者は中央陸軍軍官学校で軍事訓練を受けた後、中央航空学校に送られた[27]

1933年、カーチス・ホークU、ローニング水陸両用機、アブロ621練習機(英語版)を購入するも、福州で揚陸されていたところで福建事変が起こり、19路軍に鹵獲され広東空軍の手に渡った[28]。これらの航空機は中央空軍の空爆の際破壊されたが、多くは無傷のまま鹵獲されており、あらかじめ広東空軍の人員が中央軍に買収されていた可能性もある[29]。翌年12月1日には陳銘枢中華共和国残党が中国共産党と合同で福建区第一次人民大会を開催したため、群衆に爆弾を投下した。また同時期、江西省の剿共作戦にも投入され、長征の列への偵察・空爆に活用された。朱徳の左腕に負傷を負わせたものの[30]、決定的な損害を与えるには至らなかった。

1934年5月、航空署は航空委員会に改編され、軍政部から独立して軍事委員会直属となった[31]?介石が委員長、弁公庁主任に陳慶雲(のち周至柔)が就任し、その下に5処17科の部署が設けられた[32]。航空隊は8個に拡大した[22]。第1隊(隊長:??非)と第2隊(隊長:王勳)は轟炸隊であり、第3隊(隊長:張有谷)、第4隊(隊長:劉義曾)、第5隊(隊長:楊亜峰)の3隊は偵察兼轟炸隊、第6隊(隊長:王伯嶽)は偵察隊、第7隊(隊長:王天祥(中国語版))と第8隊(隊長:高志航)は駆逐(戦闘)隊であった[32]。また同時期、ジュエットの米軍事顧問団に代わってシルヴィオ・スカロニ(英語版)少将、ロベルト・ローディ(英語版)准将ら150名からなるイタリア軍事顧問団を招聘し、イタリア式教練をベースとする洛陽分校を1936年に開校した。

1935年、第9から第14隊が編成され、それに伴い各地の飛行場が急務となった。日本軍の調査では、開戦直前の主要飛行場数は華北37、華中49、華南22、奥地32となっている[33]。各飛行場は規模や用途、戦略ごとに区分けされており、平時に航空隊が駐留する主要都市の「第三線飛行場」、有事に爆撃機隊が出撃拠点や戦闘機隊が待機地として展開する「第二線飛行場」、そして最前線の「第一線飛行場」に区分されていた[† 3]。第三線飛行場に該当する南京の大校場機場(中国語版)、南昌の青雲譜飛行場(中国語版)、漢口王家?飛行場、杭州の筧橋飛行場、西安の西関飛行場(中国語版)(1937年より[35])、広州の天河飛行場(1936年より)、漢中などの大型飛行場は1935年6月以降、空軍総站に指定され、航空隊の補給や修理などのバックアップ以外にも近郊の第二線、第一線飛行場の管理運営を任されるようになる[22]。站長は主に軍閥出身の元パイロットが任ぜられ、下は少尉から始まり[36]、総站クラスとなると少校?中校クラスがなった。第二線飛行場は信陽、玉山など、第一線飛行場は洛陽金谷園飛行場、周家口飛行場などが挙げられる。

1934年8月、筧橋飛行場(英語版)近隣に中央杭州飛機製造廠を、南昌の青雲譜飛行場近隣に中央南昌飛機制造廠を設立[37]。イタリア軍事顧問団の技術者を招聘し、指導が行われた。

また、北伐直後より国民政府は防空体制の在り方も模索しており、1932年に高射砲を輸入して高射炮班を設立。1934年1月1日に高射砲隊と人民防空研究班を合併させ筧橋に中央防空学校を設立(1935年12月に南京光華門付近に移転)[38][39]、同卒業生で年内には高射砲部隊を大隊規模にまで拡充した[40]。1934年11月12日、南京で首都防空演習が実施されると、防空網の拡充や民間団体による防護団の組織が求められる[38]。浙江省では保安司令部会と中央航校により防空監視哨の設置が行われ[39]、また1936年春に中央防空学校にて防護団が組織、同年秋には「各地防護団組織規則」が制定された[38]。1935年9月より米国や英国などの投資のもと、南京や上海に無電台を設置するなど防空網の整備に取り掛かり[33]、その設置運営は陳一白ら藍衣社系人員が中心となって行われた[41]。また、中央航校では崔滄石らにより陸軍との連携作戦のため陸空連絡専門員の育成がなされた。同年11月には京杭三市合同防空演習を実施、これをきっかけとして杭州防空司令部が設立される。日中戦争勃発(1937年)前後、各省にも防空司令部や省会防護団の設置が行われた[40]。勃発時点では浙江省だけで防空監視哨78箇所[39]、省会防護団は8個区団の下に32個分団[39]、また高射砲部隊は陸軍砲兵第41団、第42団の2個団を保有していた[40]。このため、日本軍からは航空作戦基盤は比較的整備されていたものと見られた[33]

1936年5月に発生した両広事変(中国語版)の折、藍衣社やCC団により西南派・新広西派の所有する広東、広西空軍に買収工作が行われ[42]、両空軍のパイロットが中央空軍に多く帰順した。


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