中華民国空軍
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歴史











中華民国台湾)空軍の国籍標識

中華民国空軍(ちゅうかみんこくくうぐん、中華民國空軍、: Republic of China Air Force, ROCAF)は中華民国国防部に属する空軍中華民国政府の台湾への移転後は台湾の防衛が主任務で、台湾空軍とも呼ばれる。
歴史
創設期

中国に飛行機が持ち込まれたのは末期の1909年2月21日、上海競馬場にてフランス人ルネ・バロンがソメール複葉機を操縦したことに始まる[2]。1910年10月にはロシア人飛行家アレクサンドル・コセミンスキーが北京天安門広場ブレリオ XIの飛行を行った。また、1911年3月には広州出身で、1909年にアメリカ合衆国で中国人初の飛行を成功させた米国籍中国人馮如が、広州の燕塘にて自作の航空機で飛行した。中国籍としては浙江省出身の雌燕[3]1911年10月17日イギリスにてライセンスを取得した[4]。清国政府もこうした動きを看過できず、新軍気球部隊の創設のほか、劉佐成と李寶浚に南苑に飛行機小試験廠を設置させた[4][5][6]

辛亥革命勃発後、黎元洪率いる湖北軍政府(中国語版)はエトリッヒ・タウベ2機を発注。しかし機体が届いた頃には革命は終結しており、南京臨時政府は南京衛戍司令部交通団の管轄下に初の航空隊である飛行営(営長:李寶浚)を組織する。しかし、北洋政府の成立後、飛行営は解体され、タウベは南苑に送られた[4][7]

中華民国建国後、臨時大総統に就任した袁世凱と副総統の黎元洪は、航空機と潜水艦がこれからの戦力で重要になるとするフランス人軍事顧問パリゾの提案で航空隊の創設に着手。また北京に南苑航空学校を創設した。使用機はコードロン G.3(英語版)およびG.4、コードロンC型(英語版)などである。

1913年冬にボグド・ハーンの侵攻に呼応して内蒙古で反乱が起こると、南苑航空学校教官の潘世忠操縦、1期生生徒の呉経文偵察で「托羅蓋」(新疆省綏来県(中国語版)、現:新疆ウイグル自治区昌吉回族自治州マナス県北北東のホシフトロカイ(和什事托羅蓋)の事か)にて偵察任務を行う[8]。これが初の実戦投入となる[9]。その後も、1914年春の白朗の反乱、1915年の陳?四川派遣、同年末の護国戦争袁世凱の死により帰還)、1917年7月の張勲復辟で教官や生徒が偵察や爆撃伝単散布に投入された[8][10]

その後、安直戦争による安徽派の失脚で南苑航空学校の人員は直隷派奉天派に分散。各地で勢力を築いた軍閥は互いに戦闘を繰り広げたが、その中で彼らの航空戦力は偵察や爆撃に重要な役割を果たした。それに伴い、直隷派の保定航空学校山西派の山西航空学校、奉天派の東北航空学校や山東航空学校、雲南派の雲南航空学校が開校した。

一方、孫文率いる中華革命党は、軍閥を殲滅し中華統一を果たすべく、海外華僑と協力して日本の滋賀県八日市町に中華革命党航空学校(1915年)、米国に美州航空学校(1916年)や図強飛行機公司(1919年)、カナダに中国強華飛行機学校(1919年)等の飛行学校を創設し、楊仙逸(中国語版)、黄秉衡陳慶雲らパイロットの育成に着手した。また、1916年の護国戦争では中華革命党航空学校卒業生と坂本寿一、立花了観ら日本人教官9名を含む87名の人員で中華革命軍東北軍(長:居正)指揮下に「華僑義勇団飛機隊」(管理主任:胡漢堅)を結成、7月より山東省?県城(中国語版)に実戦投入した。華僑義勇団飛機隊は梅屋庄吉の出資で購入したカーチス JN-4 ジェニー(英語版)、J-5、モラーヌ・ソルニエ G型翦風号」各1機1隊の3隊で構成され、宣伝ビラを撒くほか、スリーキャッスル(紙巻たばこ)の空き缶にダイナマイトを積めて投擲するという原始的な爆撃を行った[11][12]。飛行機がまだ珍しかった当時、これらの北洋軍への心理的影響は大きく、4、5回の爆撃ののち北洋軍より?県城からの撤退を条件に爆撃をやめるよう申し出を受けた[11]

1917年9月、広東軍政府大元帥として広州に拠点を構えた孫文は、1920年、大元帥府の下に航空局(局長:朱卓文)を設立、海外で訓練を受けたパイロットとマカオで購入した航空機を集め、第1隊(隊長:張恵長(中国語版))と第2隊(隊長:陳應權)を編成[13]し、「中山航空隊」を称した[14]。翌1921年、孫文は62項目からなる『国防計画』を策定、うち9項目に「航空救国」と題し、航空隊の拡充、航空学校の建設によるパイロットの自主育成や飛行場、修理施設の設置を立案した[15]。本計画に基づき1923年に飛機廠が、1924年には広東航空学校と大沙頭飛行場(中国語版)が設立された。またこの間、莫栄新ら旧桂系の排除(1920年)、陳炯明(1922年6月)、沈鴻英の反乱(1923年4月)で実戦投入され、爆撃、対地機銃掃射、宣伝ビラ投下などを行った[16][17][18]

1926年9月上旬、国民革命軍が直隷派・呉佩孚軍(討賊聯軍)の拠点であった武漢を占領すると、航空局は航空処(代理処長:張靜愚)に改編され、国民革命軍総司令部の隷属となる[19]。一方、武漢を追われた討賊聯軍航空司令部の航空機とパイロットは孫伝芳張宗昌連合軍(直魯連軍)に接収され、南京や上海に展開した。

しかし1927年3月、国民革命軍東路軍が上海を、同年春に国民革命軍江右軍が南京を掌握すると、接収され東路軍航空司令部[† 1][20]と江右軍航空隊[† 2]が編成された。これらの航空隊は南京・武漢国民政府の統合のちしばらくして国民革命軍総司令部航空処に編入され、中央集権化が進められた。一方、帰順を拒んだ一部のパイロットたちは張作霖軍に身を寄せた。
拡充期

1928年10月、全国の軍政は統一され、国民革命軍総司令部航空処は軍政部航空署に改編された[22]。飛機隊2個と水面飛機隊1個を保有していたが、後に航空隊に改称され、5個隊に拡充された[22]


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