中華民国の歴史
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1912年1月1日 - 1928年6月9日)と、中国国民党による国民政府1948年5月20日以降は中華民国政府)(国民党時代。1928年6月9日 - 1949年12月7日)に分けられる。しかし、初期の袁世凱による統治期を除いて中央政府の実効支配は中国本土全域に及んでおらず、地方には軍閥などの諸勢力に実効支配される地域が存在していた。

第二次世界大戦終結後に国民党と共産党間で国内統一を争う国共内戦が起こり、これに勝利した共産党が1949年10月1日中華人民共和国を樹立する。中華民国政府は1949年12月7日台湾に撤退して台北臨時首都を置いた。
北京政府時代(1912年 - 1928年)
中華民国成立北京政府時代の国旗1912年に中華民国臨時政府が成立した際に主張した領土1166萬平方公里

北京政府とは、1913年から1928年まで北京に存在した中華民国の正統な政府である。北洋軍閥政府ともいう。

1911年武昌起義に始まる辛亥革命の中、1912年1月1日に中華民国臨時政府南京において成立した(なお、国号については黄遵憲の「華夏」、劉師培の「大夏」、梁啓超の「中国」の他に「支那」や「大中華帝国」という提案もあったが、最終的には章炳麟の「中華民国」が採用された)。この時点では未だ北京に清朝が存続しており、中国を代表する政府が南北に並存する状況にあった。しかし、同年2月12日にの宣統帝(愛新覚羅溥儀)が退位したことにより、中華民国が中国を代表する国家となった。
孫文と袁世凱1912年の中華民国内閣初組閣時の記念写真
後列左より、農林総長宋教仁・交通総長施肇基・陸軍総長段祺瑞・司法総長王寵恵・翰長魏宸祖
前列左より、教育総長蔡元培・商工総長代理王正廷・海軍総長劉冠雄・外務部総長代理胡惟徳・総理唐紹儀袁世凱中華民国成立を祝うポスター
左に袁世凱・右に孫文

南京に成立した臨時政府では、国家元首に当たる臨時大総統孫文であった。だが、孫文は当時国内で最も軍事力を有し、また清朝の全権を握っていた袁世凱と交渉し、南北分裂状態であった中国を臨時政府によって統一させるため、宣統帝の退位、臨時約法の遵守といった条件と引き換えに臨時大総統職を彼に譲った。しかし、袁世凱は臨時大総統就任後、責任内閣制の導入を図る国民党中国同盟会を改組したもの。現在の中国国民党とは異なる)の宋教仁を暗殺したほか、統治の拠点を自らの軍事基盤である北京において専制体制を強化した。こうした袁の専制への反発から、1913年7月には江西の李烈鈞らが中心となって第二革命が勃発した。しかし、反袁勢力の結集に失敗して鎮圧され、袁は正式に大総統に就任し、北京政府が正式に成立した。第一次世界大戦の最中である1915年に日本から出された対華21ヶ条要求(中国に於ける日本の利権を絶対的に保証する内容)を批准し、更には自らが皇帝となることを前提に帝政復活を宣言して国号を「中華帝国」に改めた。これに対して国内外からは非難の声が殺到し、雲南の唐継堯らが倒袁運動を展開(第三革命)したほか、袁の権力基盤である北洋軍閥の諸将からも反発を受けた。このため袁は翌1916年に帝政復活取消を宣言せざるをえなくなり、権威を失墜させ、そのまま同年6月に病死した。
中国国民党の設立孫文

袁世凱の死後、中華民国には中国全土を完全に統治する「統一政府」が存在しない状態が生まれた(1916年 - 1928年)。そのため、軍閥が群雄割拠する軍閥時代となり、同時に日本フランスアメリカなどの列強諸国による中国の半植民地化も進行したのである。しかし同時に、この時期に日本から出された対華21ヶ条要求の廃棄を挙国的に要求する五四運動1919年)が起きたほか、陳独秀などが主導した新文化運動が広範な人々の支持を受けるなど、中国近代化を象徴する出来事が起こっている。また、1919年の寛城子事件のような日中の衝突に続き、1920年にはシベリアに派遣された中国艦隊が赤軍と協力して日本軍を殲滅する尼港事件を起こすなど戦力を充実させてきた。このような中、孫文は1919年中国国民党を創建し、1921年には後の国民政府の基となる政府広州で樹立した。?介石

また、孫文は成立したばかりのソビエト連邦と接触し、その後の1924年には中国共産党党員(1921年創党)がその党籍を保持したままで国民党への入党を認めるという、いわゆる第一次国共合作を行なっている。孫文は1925年に死去したが、1926年になると?介石が孫文亡き後の国民党の主導権を握り、広州を起点に北伐を開始、その過程で軍閥なども糾合していくことによって中国の統一が進められた。

1927年に?介石率いる国民革命軍南京を占領するが、ソビエト連邦のコミンテルンと、その指揮下にある中国共産党の指令、扇動による日本、イギリスイタリア、フランス、アメリカの列強諸国の領事館を襲撃し民間人を虐殺した南京事件が起こる。この事件により?介石は共産勢力を敵視するようになり、1927年4月国共合作を解消すると、上海、武漢などの各地方で国民党内部から共産党を掃討する運動、いわゆる上海クーデターを起こした。この際、北伐は一時停滞、国民政府は?介石の南京国民政府(1927年4月18日)と、これに反対する汪兆銘等の「武漢国民政府」に分裂する。

しかし、劣勢な武漢国民政府は数カ月後の1927年8月19日には南京国民政府に合流することになり、結果、南京国民政府を主導する?介石の権力はより一層強固なものとなった。1928年4月8日に北伐が再開される。北伐に押され、北京から撤退した北方軍閥の張作霖が、6月4日に日本軍(関東軍)によって爆殺された後(張作霖爆殺事件)、1928年6月9日には国民党軍の北京入城によって北伐完了が宣布され、同年10月10日、?介石は訓政の実施を発布した。一方で、満洲ではソ連に挑んだもののソ連軍に圧倒された(中ソ紛争)。さらに同年12月29日には東北の張学良易幟を行ない国民政府に帰順した。ここにおいて、中華民国は各地の軍閥や共産党勢力といった反抗勢力を抱えつつも、南京国民政府によって一応の全国統一をみたのである[注釈 3]
国民政府時代(1928年 - 1949年)
南京国民政府と汪兆銘政権

南京国民政府とは、1928年から1949年まで南京に存在した中華民国全土を代表する政府である。なお、日中戦争下の日本では、1940年成立の汪兆銘政権を「南京国民政府」と呼称し、中華民国の正統な政府として承認する一方、重慶へ撤退した従前の南京国民政府を「重慶政府」と呼称していたが、ここでは「重慶政府」も南京国民政府として解説する。
中ソ紛争

1929年7月にはソビエト連邦が満洲に侵攻し(中東路事件)、中華民国軍は撃破され、12月22日にハバロフスク議定書が結ばれてソビエト連邦の影響力が強まった。中華民国政府がソビエト連邦と交戦に力を注いでいるうちに中国共産党は中国各地で盛んに活動を行った。
1930年代の国共内戦


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