中華民国の政治
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本土派や民進党の勢力も急速に強まり、台湾では自分を中国人ではなく台湾人と認識するアイデンティティが強まっている[1][2][3][4][5][6]
国内政治国民政府南京、1948年以前)中華民国総統府

中華民国の国内政治体制は、中華民国憲法に基づいて構成されている。だが、この政治体制は中華民国政府が大陸地区も支配していることを前提に定められたものであるため、中央政府の統治区域がほぼ台湾のみに限定されるようになってからはさまざまな矛盾が生じるようになった。そのために、1990年代に入ると徐々に矛盾解消のための改革が行われるようになり、現在では矛盾も小さくなりつつある。
憲法

中華民国の憲法である中華民国憲法は、1946年11月に開かれた制憲国民大会で採択され、翌1947年元日に公布され、1947年末に施行された。この憲法の特色は、国父である孫文が提唱した三民主義を政治目標とし、国家権力を「政権」(選挙権罷免権などの人民の権利)と「治権」(行政権、立法権などの政府の権力)に分けていることである。憲法は14章で構成され、全文は175条ある。

この中華民国憲法が公布・施行された1947年は、中華民国が南京を首都として中国大陸台湾の両地域を領土にしていた時代(1945年10月25日?1949年10月1日)であり、大陸地区の支配を前提に制定された。そのため、中華民国政府が台北に移転した後、国民大会立法院などの大陸地区で選出された議員が1948年以来の動員戡乱時期臨時条款施行による改選不可能を理由に終身議員(万年議員)になるなど、不具合が生じるようになった。このような状況により、台湾移転後の中華民国の実効統治区域における民意が国政に反映されにくくなった。李登輝総統が1991年から5回にわたって憲法の修正を行い、「万年国会」解消による大陸選出議員の「終身(万年)化」の防止と国民大会議員・立法院議員・正副総統の台湾地区住民の直接選挙による選出により、政府の実質的な統治区域における民意がより強く反映されるようにした。

しかし、このような修正では満足せずに新しい憲法を制定しようとする動きがあり、陳水扁総統は任期である2008年までに実施する考えを明らかにした。その第1段階として、2005年6月7日に憲法修正案が国民大会で4分の3以上の同意を得ることで可決された。その結果、立法院議員の半減と(基本的に日本と同様の)小選挙区比例代表並立制の実施・立法院における憲法修正案の可決条件を強化・公民投票による憲法修正案の再審査と国民大会の廃止・正副総統の弾劾権を司法院大法官に付与することが決定された。
政府詳細は「中華民国政府」を参照
国民投票詳細は「国民投票 (中華民国)」を参照

中華民国の国民投票(繁体字: 中華民國全國性公民投票)は、中華民国国民投票法に基づいて実施される国民投票のこと。 投票は、普通投票、平等投票、直接投票、無記名投票で行われ、 国民投票の結果は所管官庁によって発表される。

国民投票は、当時の陳水扁総統が国民投票法の「防禦性公投」規定に基づいて提案し、総統選挙と同じ2004年3月20日に実施された。2021年現在、中央選挙管理委員会は20の国民投票を発表・開催している。
政党

国民政府による1928年北伐完了以来、中華民国では中国国民党の一党独裁体制(ヘゲモニー政党制)が長らく続いていた。さらに、1949年12月7日の戒厳令実施以降は、国内での集会と結社の自由が制限され、新たな政党の結成も禁じられた(これを「党禁」という)。だが1987年の戒厳令(中国語版)解除、1989年の「人民団体法」公布によって政党の結成が自由化され、2000年には史上初めて中国国民党以外の政党(民主進歩党)から総統が選出されるまでになった。

2024年1月時点で、内政部民政司が公開している「政党名冊」には91の政党が存在する[7]。2024年に行われた立法委員選挙の時点で立法院に議席を有する政党は以下の通りである。

与党:民主進歩党

野党:中国国民党 - 台湾民衆党

主張の傾向別に政党を区分すると、主要な政党は以下のようになる。

泛緑民主進歩党 - 社会民主党 - 台湾基進 - 酷}

泛藍中国国民党 - 無党団結連盟

第三勢力:時代力量 - 台湾民衆党
台湾の政党一覧」も参照
負の歴史の振り返り

戒厳令下で行われた人権侵害の解明や政治犯の名誉回復。

2018年から2022年にかけて行政院に促進転型正義委員会が設置され4年間集中的に調査を行った。2022年5月30日の解散後その取組は各省庁に引き継がれた[8]

4年に渡った調査で約2万人の被害者がいることが明らかになったが密告者や公務員[9]といった加害者側の解明はほとんど進まなかった[10]

また委員会副委員長を務めていた民進党の張天欽が当時、新北市市長に立候補していた中国国民党の侯友宜を標的として排除する会話が流出し張は辞任後に懲戒処分を受けた。この結果、「『促進転型正義』とは歴史の清算ではなく、政府が政敵を駆逐するための口実にすぎない」という批判がメディアから起こり、促進転型正義委員会の名誉は失墜した[11]
外交詳細は「中華民国の国際関係」を参照

中華民国は1945年成立の国際連合の原加盟国であり、安全保障理事会の常任理事国であった。1949年の台湾への移転後は、「全中国を代表する国家」としての国際的地位の確保を求めて外交工作を展開し、中華人民共和国と新たに外交関係を持つ国とは即座に国交を断絶するという措置をとった(「zh:漢賊不兩立」漢賊並び立たず)。中華民国が中国の国連代表であることについてソビエト連邦などがしばしば問題視したが、中華民国はアメリカ合衆国などの支持を得て国連での地位を確保し続けた。

1971年10月25日に採択された国際連合総会決議2758(アルバニア決議)によって、国連での中国代表権が中華民国から中華人民共和国へと移ることとなり、抗議した中華民国は国連からの脱退を宣言した。その後、中華人民共和国を「中国を代表する国家」として承認する国が続出し(1964年にフランス、1970年にカナダ、1972年に日本西ドイツ、1979年にアメリカ合衆国、1992年に大韓民国、1997年に南アフリカ共和国)、中華民国の国際的な孤立が深まった。そのため中華民国は外交を弾力化し、国交のない国との間で貿易などの実質的関係を発展させ、各種の民間国際交流を奨励する一方で、他の国際組織での議席・権利の維持や既存の国交のある国との関係を強化するようにしていった。

冷戦後の1990年代に入ると、中華民国は「全中国を代表する国家」であることに固執せずに国際的地位を確保するという外交政策をとりはじめ、広範に国際組織に参加、活動することを目標とするようになった。これは、中華民国が主権国家であることを国際社会にアピールすることを目的としており、1993年から続いている国連再加盟運動もこの政策の一環であるといえる。だが、このような外交政策は中国共産党が主張する「一つの中国」に抵触するおそれがあり、両国関係にも影響が及んでいる。

中華民国は、代表なき国家民族機構(UNPO)という国際NPOの会員になっているが、台湾民主基金会として参加している。


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