中華民国の政治
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この結果、「『促進転型正義』とは歴史の清算ではなく、政府が政敵を駆逐するための口実にすぎない」という批判がメディアから起こり、促進転型正義委員会の名誉は失墜した[11]
外交詳細は「中華民国の国際関係」を参照

中華民国は1945年成立の国際連合の原加盟国であり、安全保障理事会の常任理事国であった。1949年の台湾への移転後は、「全中国を代表する国家」としての国際的地位の確保を求めて外交工作を展開し、中華人民共和国と新たに外交関係を持つ国とは即座に国交を断絶するという措置をとった(「zh:漢賊不兩立」漢賊並び立たず)。中華民国が中国の国連代表であることについてソビエト連邦などがしばしば問題視したが、中華民国はアメリカ合衆国などの支持を得て国連での地位を確保し続けた。

1971年10月25日に採択された国際連合総会決議2758(アルバニア決議)によって、国連での中国代表権が中華民国から中華人民共和国へと移ることとなり、抗議した中華民国は国連からの脱退を宣言した。その後、中華人民共和国を「中国を代表する国家」として承認する国が続出し(1964年にフランス、1970年にカナダ、1972年に日本西ドイツ、1979年にアメリカ合衆国、1992年に大韓民国、1997年に南アフリカ共和国)、中華民国の国際的な孤立が深まった。そのため中華民国は外交を弾力化し、国交のない国との間で貿易などの実質的関係を発展させ、各種の民間国際交流を奨励する一方で、他の国際組織での議席・権利の維持や既存の国交のある国との関係を強化するようにしていった。

冷戦後の1990年代に入ると、中華民国は「全中国を代表する国家」であることに固執せずに国際的地位を確保するという外交政策をとりはじめ、広範に国際組織に参加、活動することを目標とするようになった。これは、中華民国が主権国家であることを国際社会にアピールすることを目的としており、1993年から続いている国連再加盟運動もこの政策の一環であるといえる。だが、このような外交政策は中国共産党が主張する「一つの中国」に抵触するおそれがあり、両国関係にも影響が及んでいる。

中華民国は、代表なき国家民族機構(UNPO)という国際NPOの会員になっているが、台湾民主基金会として参加している。

現在、中華民国と国交のある国は12カ国(2024年1月19日時点)だが、他にも59カ国と香港・マカオ、ソマリランド代表処や弁事処(実質的に大使館や領事館の役割を果たしている非政府機構の形をとった窓口機関)を設置している(2006年8月6日時点)。なお、中華民国と公式な外交関係のある12カ国は以下の通りである。

オセアニアツバル - パラオ - マーシャル諸島 (近年は2019年9月16日までソロモン諸島、9月20日までキリバス、2024年1月15日まで ナウルと国交があった[12][13]

アフリカエスワティニ(2018年5月24日までブルキナファソとも外交があった[14]

ラテンアメリカグアテマラ - セントクリストファー・ネイビス - セントビンセント・グレナディーン - ハイチ - パラグアイ - ベリーズ - セントルシア(近年は2017年6月11日までパナマ、2018年4月30日までドミニカ共和国との国交があった[15]が、それぞれから国交断交発表があった。2018年8月21日にはエルサルバドル、2021年12月10日にはニカラグア[16]、2023年3月26日にはホンジュラス[17]とも断交した。)

ヨーロッパバチカン

対米関係詳細は「米台関係」を参照

中華民国にとって、華米関係は外交政策上の最重要事項である。そもそも国共内戦で中国国民党が敗北を喫した要因は、アメリカ合衆国対日占領に熱中したことと、「中国白書」の発表によって国民党政権への軍事援助を停止したことの2点であった。

1950年1月に国民党政権が台湾での活動を本格化した際、ハリー・S・トルーマン大統領は国民党政権に対して、経済援助は実施するが軍事には干渉しないと明言した。そのため国民党政権は共産党軍の台湾侵攻に対する危機感が高まったが、1950年6月25日朝鮮戦争勃発により状況は一変した。

1951年1月、ホワイトハウスに対する国民党政権への軍事援助を復活させ、2月には「米華共同防衛相互援助協定」を締結、軍事顧問団を派遣。1954年12月には「米華共同防衛条約」を締結。

1979年のアメリカ合衆国と中華人民共和国中国共産党・北京政府)の国交樹立にともない、中華民国とアメリカ合衆国との国交はなくなった。しかし、ホワイトハウスは「米華共同防衛条約」に代わるものとして、「台湾関係法」を制定し、台湾を「政治的実体 (political entity)」と認めて実質的な関係を維持、有償で武器などを提供している。
対日関係詳細は「日台関係史」を参照

第二次世界大戦後の正式な日華(日台)関係は、1952年から始まる。1952年の日華平和条約締結によって、中華民国は日本との国交を回復し、両国に大使館が設立された。だが1972年に日本が中華人民共和国との間で国交を樹立(日中国交正常化)したことにより、中華民国は日本との国交を断絶し、両国間の正式な外交関係は終わった。

断交後、日台両国は民間窓口機関を経由しての「間接外交」によって実質的な外交関係を維持するようになり、そのまま現在に至っている。これは、民間の機構に実質的な大使館や領事館の役割を与え、両国が外交上の便宜を「民間職員」に対して図ることによって成立しており、日本側は「日本台湾交流協会」を、中華民国側は「台湾日本関係協会」をそれぞれ相手国に駐在させている。

なお、「亜東関係協会」の東京駐在事務所は、1992年5月にそれまでの「亜東関係協会東京弁事処」という名称を「台北駐日経済文化代表処」に、団体の名称は2017年5月に団体の名称を「亜東関係協会」から「台湾日本関係協会」[18]にそれぞれ変更している。
対蒙関係詳細は「台蒙関係」を参照

建国以来、中華民国はモンゴル自国の領土として扱って外蒙古と表記し、1924年モンゴル人民共和国が成立した後も独立を認めなかった。

?介石率いる国民政府は、1945年6月のソビエト連邦との外交交渉の際に「ソ連が日本撤退後の満洲中国共産党に渡さず、かつ新疆独立運動を支援しないと約束するなら、抗日戦争勝利後に外蒙古が国民投票を経て独立することを認めてもよい」と主張し、1946年1月に一旦はモンゴルの独立を承認した。

しかし国共内戦中に、ソビエト連邦は勢力を拡大した共産党を支持し、国民党への支持を停止するという措置を採った。それが遠因の一つとなって国民政府(1948年以降は中華民国政府)は各地で内戦に敗れ、中国大陸におけるほぼ全ての領土を喪失した。台湾移転後の1953年、中華民国政府はソビエト連邦政府との間で結んでいた中ソ友好同盟条約の正式な廃止を決定し、同時にモンゴルの独立承認も白紙に戻したと解釈されることになった[19]

民主進歩党陳水扁政権は、実質的にモンゴル独立を認め、2002年には外交部ウランバートル台北貿易経済代表処を開設した。それに伴い、台北にもモンゴルの貿易代表事務所が設立され、現在では両国の事実上の大使館として機能している。


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