中華人民共和国によるチベット併合
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チベット政府ガンデンポタンは、清国の滅亡にともなう中国側の混乱に乗じて反攻を開始、1913年にラサを奪還して独立を宣言するとともに、1917年 - 1918年1931年 - 1933年にかけて、中華民国と戦火を交え、ディチュ河(金沙江)に至るまでのカム地方の西部に対する支配権を徐々に回復していった。

チベットと中国は、それぞれカム地方の全域が自国の管轄下にあるという建前の地方行政単位をもうけた。チベットは、カム地方西部の中心都市チャムドに「ドカム総督府」を置き、閣僚級のアムド・カム総督(ドメーチーキャプ)を配して統治にあたらせた。一方、中華民国は、発足以来、カム地方に対して趙爾豊が構想した西康省を設置することができず、ガンデンポタンが実効支配する地域もふくめて、名義の上で川辺特別区と称していたが、国民政府時代の1939年、実効支配の及ぼばないディチュ河以西をも名目上の範囲として、西康省を設置した。川辺地区もしくは西康省の歴代長官は四川省に縁故のあるものたちが就任し、南京国民政府の西康建省委員会委員長(任1934-39)や初代の西康建省政府主席(1939-49)は、四川省政府主席から転じた劉文輝がつとめた。
中央チベット(西藏)の状況
ダライラマとガンデンポタン

1637年より42年にかけて、ダライ・ラマを信仰するグシ・ハン[10]がチベットを征服、ヤルンツァンポ河流域が当時のダライラマ五世(1618-83,位1622?96)[11]寄進され、ダライラマの財務監(チャンズーパ)ソナム・ラプテンがデシーに任じられてその統治・管理にあたった。ガンデンポタンはこの寄進により、ダライラマ領の統治機関となった。ダライラマは、自身の財務監(チャンズーパ)であるデシーの任命権を保有したほか、チベット各地の諸侯に対してグシハン一族とともに所領の安堵を行い、ゲルク派寺院の人事権、その他の宗派の管長の地位の認定などをおこない、政治・宗教の権力・権威の頂点に立つようになった[12][13]。さらにはハルハオイラト本国、ダライラマ政権の樹立に貢献した青海ホショトをはじめとする青海オイラトなどチベット内外のモンゴル系王公たちにハンホンタイジ・タイジ等の称号を授与し、清朝もダライラマ5世が彼らに授与した称号をそのまま使用するなど、チベットの枠をこえ、チベット仏教圏諸国の権威の頂点に位置するようになった[13]

雍正のチベット分割ののち、清朝はタンラ山脈ディチュ河を結ぶ線の南方に位置する諸侯の支配権をあらたに「ダライラマに賞給」する一方で、この線の北方に位置するチベット人諸侯に対する領主権の認定権や青海オイラト人王公に対する称号の授与権などの制限をはかった[13]が、ダライラマの宗教的権威はその後もおとろえず、チベット・モンゴルにまたがるチベット仏教界の頂点に位置しつづけた[14]
ガンデンポタンと清朝との関係

1642年のダライラマ政権の発足以来、ダライラマ政権の3種の首脳であるダライ・ラマ、チベット・ハン、デシーの地位の認定は、チベットの内部[15]で決定されており、清朝による関与は、これらの地位についた有力人物の地位を追認する形で称号や印章をおくるにとどまっていた[13]

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}清朝は、1706年-20年の「ダライラマ5世の後継者をめぐるグシ・ハン一族の内紛」、1727年-28年の「ウー・ツァンの内戦」、1750年-51年の「ダライバートルの乱」、1788 年-89年,1791年-92年の 「清・ネパール戦争」など、チベットで内乱や外患が生ずるごとに介入してそのプレゼンスを強めていった。しかし19世紀にはいると、一転してチベットを支援する余裕をなくし、1840年のドーグラー戦争、1855年?56年のチベット・ネパール戦争は、チベット単独でカシミールネパールなどの外敵と戦って不利な講和を余儀なくされ、清朝皇帝の「転輪聖王たる文殊皇帝」としての権威は失墜していった[要出典]。

1903年-04年の、英領インド軍を率いたフランシス・ヤングハズバンドの武装使節団の侵攻の際、当時のダライラマ13世は北京におもむいて清朝に支援を求めたが思うような助力は得られず、逆に趙爾豊率いる蜀軍の侵攻、ラサ制圧(1905-1910)をみるにいたり、チベットは従来清朝との間に存在した「チョユンの関係(施主と福田の関係)」は完全に終焉を迎えたと判断し、「清朝からの独立」を模索するようになる[要出典]。
ガンデンポタンと中華民国の北京政府・国民政府との関係
20世紀前半のチベット情勢.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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チベットはユーラシア大陸の中央部に位置する険しいチベット高原に存在し、独自の文化圏を築いていた。しかし、清朝の時代の一時期に、清国軍の駐屯を受け入れて保護国となった。また19世紀にはイギリスの勢力下にあり、1904年イギリス軍はラサに駐屯していた。辛亥革命後にチベットは自立し、第二次世界大戦においては中立政策を保持していた[16]。ただし第二次世界大戦におけるチベットは、中立政策を掲げながらもイギリス軍やアメリカ軍などの連合国軍へ、中華民国への兵站線を提供していた。

当時のチベットの指導者はダライ・ラマ14世であった。第二次世界大戦が1945年に終結すると、インドと中華民国に代表団を派遣してチベットの主権を確立しようと試みたが、中国国民党内の強硬派の抵抗にあって失敗し、さらに主権確立、つまり完全独立への画策は同年に勃発した国共内戦で先送りにされた。[17]
戦争経過(第2段階)詳細は「チャムドの戦い」を参照
中国共産党、「チベット併合」を発動


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