中華人民共和国によるチベット併合
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1860年代の回民の大叛乱ののち、中国西北の寧夏、甘粛、陝西等の各地方、および青海はイスラム教徒馬一族の支配下に入り、辛亥革命により清朝が倒れたのちもこの状況はつづいた。中華民国北京政府は青海を「将来省制を施行すべき」特別地区と位置づけ、国民政府により、東隣の河西回廊の一部とあわせて1928年に「青海省」が発足した。この間、馬一族からは馬領翼が青海弁事長官(1913-14)、馬麟が甘辺寧海鎮守使兼青海蒙蕃宣慰使(1915-28)、青海省委員(1929-38)、青海省主席(1931?33)等、馬歩芳が青海省主席(1938-1949)に就任している[8]

清国が滅亡したのち、ガンデンポタンはチベット全土の再統一をめざし、1933年には青海地方の南部(カム地方北部)の玉樹地方でチベット軍と青海軍が衝突したが、現状維持におわった。
激動のカム地方東部:「四川省の西部」から「西康省」へ
清朝の東部チベット支配

雍正のチベット分割(1724年 - 1732年)の際に、西藏青海のいずれにも組み込まれなかった各地の諸侯たちは、甘粛・四川・雲南など隣接する中国の各省に分属し、兵部を通じて土司の称号を与えられ、所領の安堵をうけることとなった。

19世紀なかば、ニャロン地方の領主グンポナムギャルが急速に勃興し、四川省に所属する諸侯を制圧し、清朝に対し册封と、征服地に対する支配権の確認を求めた。清の朝廷はグンポナムギャルを阻止し、清を宗主として仰ぐ諸侯を救援せねばならない立場にあるためこれを拒否したが、太平天国の乱や英仏とのトラブルをかかえており、グンポナムギャルをとがめて諸侯を旧領に復帰させる力はなく、解決をガンデンポタンに委ねた。

ガンデンポタン軍はディチュ河を東に越えてカム地方東部に侵攻、数年をかけてグンポナムギャルを追いつめ、1863年にグンポナムギャルの本拠ニャロンを攻略、グンポナムギャルに追われていた諸侯を旧領に復帰させた。清朝は、「四川省内の戦乱」を鎮圧したガンデンポタンに戦費を支払う余裕もなかったため、その代償として、ガンデンポタンによるニャロンの領有と近隣諸侯に対する支配権をみとめた。ガンデンポタンはニャロン・チーキャプ(総督府)を設置し、チーキャプ(総督)を派遣してこれを統治することとなった[9]

清国は、中国における諸反乱をほぼ収束させると、清末新制に着手した。「清末新制」は、清国における国家体制の近代化であるが、チベット、モンゴルなどに対しては、従来中国とは別個の法制・行政制度のもと、の長や土司職にある諸侯たち、ガンデンポタンなど、その民族自身による統治に委ねてきた体制を根本的に覆し、を設けて中国に組み込むことを目指す、というものであった(東トルキスタンでは、すでに1878年に省制が施行され、行政機構の中国化が達成されていた)。

四川総督趙爾豊は、1905年、蜀軍(四川軍)を率いてカム地方の東部に侵攻、諸侯を軍事制圧したのち取り潰しを宣言しつつ西進、ニャロン・チーキャプを転覆してガンデンポタンの管轄領域の奥深くまで侵入し、1910年にはラサを占領するにいたった。ガンデンポタンの長ダライ・ラマ13世はインドへ逃れた。趙はカム地方の諸侯やガンデンポタンによる支配を排し、従来ガンデンポタンの統治下にあったカム地方西部とカム地方の東部をあわせた領域に「西康省」を、中央チベットには「西蔵省」を設けようと試みた。しかしながら1911年、中国で辛亥革命が勃発、趙は成都に戻ったところを革命派に殺害され、カム地方の東端からラサにいたるまでのチベット各地に趙が配置した軍事・行政機構は、チベット側の反撃により徐々に切り崩されていくこととなる。
「西康省」をめぐるチベット政府ガンデンポタンと中華民国歴代政府の抗争

チベット政府ガンデンポタンは、清国の滅亡にともなう中国側の混乱に乗じて反攻を開始、1913年にラサを奪還して独立を宣言するとともに、1917年 - 1918年1931年 - 1933年にかけて、中華民国と戦火を交え、ディチュ河(金沙江)に至るまでのカム地方の西部に対する支配権を徐々に回復していった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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