中森明菜
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所属レーベルはユニバーサル ミュージック ジャパンPolydor Records(旧・UNIVERSAL J)内の私設レーベル歌姫レコーズ[6][7]
概要

1981年7月11日、16歳の誕生日目前に出場した日本テレビ系列のオーディション番組『スター誕生!』で山口百恵の「夢先案内人」を歌って、合格[8]。これを機に、ワーナー・パイオニアとのレコード契約を締結した。

1982年5月1日、16歳の時にシングルスローモーション」でデビューし、2枚目のシングル「少女A」がヒットした。

翌1983年には、「セカンド・ラブ」「禁区」などもヒット。1980年代のアイドルとしては松田聖子と2強を競った[3]

以降も「北ウイング」、「飾りじゃないのよ涙は」など連続してシングルヒットを出し、1985年の「ミ・アモーレ〔Meu amor e・・・〕」と1986年の「DESIRE -情熱-」で2年連続となる日本レコード大賞を受賞した[9][10]。弱冠20歳で歌手としてトップクラスの実績を収めていた。

1980年代のシングル総売上げは年間ベスト50位以内のものに限っても932.5万枚、年間50位以内ランクイン曲数は22曲と、どちらも当時の女性アイドル中で1位であった[11]。また日本レコードセールス大賞年間アーティストトータルセールス最高位の座を4回獲得している(1983年、1985年、1986年、1987年)。

女優としても、1985年1月公開の映画『愛・旅立ち』で近藤真彦と共に主演を務めたのを始め、1992年には連続テレビドラマ『素顔のままで』(フジテレビ系列)に安田成美とW主演。その後も1998年の連続テレビドラマ『冷たい月』(日本テレビ系列)で永作博美と共にW主演するなど活動を広げた。

2002年にはユニバーサルミュージックに移籍し、カバー・アルバム『-ZEROalbum- 歌姫2』を発表[7]歌姫シリーズの第2弾として発売されたこのアルバムはヒットを記録する。以降、『歌姫3 ?終幕』、『フォーク・ソング?歌姫抒情歌』などカバー・アルバムのシリーズ作をリリースする。2004年にはプライベートレーベル歌姫レコーズを設立した。

2010年10月、体調不良により芸能活動の無期限休止を発表。それ以降メディア出演はもとより、公の場へ一切姿を現していなかったが、2014年12月31日、第65回NHK紅白歌合戦にスペシャルゲストとして、ニューヨークのレコーディングスタジオから生中継で登場し、4年3か月ぶりに芸能活動の復活を果たした[12]。2015年1月には、シングル「Rojo -Tierra-」、カバーアルバム『歌姫4 -My Eggs Benedict-』をリリース。

2018年以降、再び芸能活動を殆どセーブしているものの、アルバム作品の発売など音楽活動は意欲的に取り組んでいる。

2022年8月、個人事務所HZ VILLAGEを設立と同時に、8月30日に公式Twitterを開始した。

2023年12月24日、公式YouTubeチャンネルの開設を発表した[13]
来歴
1965年 - 1981年(デビュー前)

1965年(昭和40年)7月13日(火曜日)、東京都大田区に、6人兄弟・姉妹(2男4女)の5番目、兄二人と姉二人と妹を持つ三女として生まれる[4]。6人兄弟姉妹たちは、父の名前にちなんで全員が「明」の付く名前であり、中森自身も同様の命名を受けた[14]。「明るくにぎやかな家庭であってほしい」という母の願いからであった[15][注 1]。なお、妹の中森明穂(四女で末子、2019年5月27日死去[17][18])も後に芸能界入りしたが、短期間で引退している。

父親は精肉店を営んでいた[19]

出生後、東京都清瀬市に移り住み幼少期を過ごす[4]。4歳から14歳までの10年間、練馬区バレエ教室「横山昭子モダンバレエスタジオ」に通っていた[20][21]。中森を教えていたバレエ教師は「14歳まで休むことなく通い続け、本当に真面目な子だった。フラメンコタンゴのリズムに乗ると生きいきと踊り、将来はダンサーになるのではないかと思っていた。また、幼い頃から衣装にとてもこだわりを持っていた」と語っている[21]

美空ひばりが好きだった母は、若い頃は歌手志望で「ひばりちゃんのような歌手になりたい」と言い[21][22]、中森が幼い頃から美空ひばりの歌を聞かせ、歌い方の手ほどきをしていた[23]。やがて中森は母の影響で歌手の夢を抱くようになり[23][24]日本テレビ系オーディション番組スター誕生!』に幾度となく挑戦する[24]

1981年、『スター誕生!』本選3度目の挑戦となった8月2日の放送(7月11日収録)で、中森は山口百恵の「夢先案内人」を歌い、同番組の史上最高得点となる392点で合格する[25][26]。合格後、スカウトを受ける場となる決戦大会までのおよそ1か月間、日本テレビ音楽学院でボーカルとダンスレッスンを受ける[27]。11月29日放送(11月11日収録)の決戦大会前の事前審査にあたる下見会を経て、12月6日放送(11月18日収録)の決戦大会で再び「夢先案内人」を歌唱[27]。合計11社のレコード会社や芸能プロダクションから獲得の意向を示すプラカードが上がった[26][27]。これを機に中森は、研音所属とワーナー・パイオニアとのレコード契約を決める[28]。その後、1982年2月に行われる初レコーディングに向け、自身での発声練習に加えて、ボーカル・トレーナーの大本恭敬のもと、週に1度、2度ほどレッスンを積んだ[28]
1982年 - 1984年

1982年、5月1日にシングルスローモーション」でデビュー[7][29]


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