中根康浩
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杉浦正健派の現金買収事件

1990年2月18日第39回衆議院議員総選挙において自民党杉浦正健が2期目の当選を果たすが、翌2月19日、杉浦の後援会事務局長の鈴木康夫が逮捕され、票の取りまとめに関する現金買収事件が発覚した[34]。会派「自由民主クラブ」所属の岡崎市議24人のうち、被買収容疑で起訴された市議は20人に及んだ。同年3月19日、中根も同容疑により書類送検された[35]。政情不安をよそに父親の薫は次期市長選出馬を目指し、3月6日に開いた会合で政治活動を再開すると宣言した[36]

ほとんどの市議が罪状を認めるなかで、中根は「金は父の後援会が受け取った」と全面否認した[37]。8月から9月にかけて17人が辞職[38]。残る中根勝美、中根康浩、八田二郎の3人は辞職を拒んだため、11月4日の補欠選挙後、3氏に対する辞職勧告の請願が議会に提出される。同請願は12月定例会でも1991年の3月定例会でも不採択となった[39][40]

1991年8月16日、市議を辞職[41][42]。同年9月4日、検察は中根康浩と中根勝美に対し「両被告は現金を受け取ったことを弁解しており、反省していない」として懲役10月、追徴金30万円を求刑した[43][注 3]

1992年7月26日、岡崎市長選挙が執行される。現職の中根鎭夫が前市議の都築末二、中根薫、日本共産党公認の八木隆宜らを破り4期目の当選を果たした。中根鎭夫70,319票、都築29,005票、中根薫22,900票、八木6,343票。惨敗したが、薫は開票後の取材に対し「再度挑戦したい」と答えた[46]。その夢は時を経て息子の康浩に託されることとなった[47]

父親の薫は1992年10月18日に行われた市議選に立候補し、康浩と入れ替わりで初当選した。自民党は「自民クラブ」と「清風クラブ」の二つの会派に分かれ、薫は前者に所属した[48]
県議選落選、自民党離党

中根康浩は県議会議員への出馬を考えるが、岡崎市選挙区は自民党議員が定数4のうち3人も議席を占めており、入り込む余地はなかった。1994年4月25日、国会で新生党党首の羽田孜が首相に指名される。新生党県連は5月23日、翌年の県議選公認候補者に中根を選び、党本部に公認申請した[49]。同年12月10日、新生党、公明党の一部、民社党などが結集し、新進党が結党[50]。新進党ブームに沸く中、党は中根と旧民社党現職の小見山徹之助の二人に公認を出した[51]

1995年4月の県議選で、全トヨタ労連を支持母体とする小見山はトップ当選。中根は副党首の羽田孜や幹事長代行の渡部恒三らを応援弁士に招くも[52]、次点で落選した。同年9月、行政書士の資格を取得[30]。その後新進党を離党。民主党に入党し、1999年までに同党の愛知12区支部長に選ばれる[53]

2000年2月末、全トヨタ労連の推薦を受け、4月中旬から労連幹部とともに旧民社系労組を回り始めた[53]。それから間もなくして森喜朗首相が発した「神の国発言」により、衆議院解散の時期が早まる。6月25日に行われた第42回衆議院議員総選挙愛知12区から民主党公認で立候補したが、非自民の票が中根と自由党都築譲に分散し、自民党現職の杉浦正健が順調に当選。候補者6人中、上位3人の得票数は、杉浦:117,475票、中根:81,826票、都築:33,052票。都築は中根の半分にも満たない得票数であったものの、比例名簿2位で登載されていたため比例復活で当選し、中根は落選した[54]
衆議院議員に比例復活で初当選

2003年第43回衆議院議員総選挙では、選挙区で再び杉浦に敗れるが、重複立候補していた比例東海ブロックで復活し、初当選(都築は民由合併により愛知15区へ国替えし、再び比例復活で当選した)。

2005年第44回衆議院議員総選挙では、前回総選挙の票数に1万票以上上積みしたが、杉浦に敗れ、比例復活ならず落選[55]

2009年第45回衆議院議員総選挙では、愛知12区で初めて杉浦を破り、4年ぶりに国政に復帰[56]。なお民主党には、同一の選挙区で3度落選した候補者は公認しない内規が存在していたが、この総選挙において中根は年齢的な若さも考慮され、特例で公認を受けた。

2011年牧義夫衆議院議員が2月の知事選名古屋市長選や4月の統一地方選挙惨敗の責任をとって、民主党愛知県連の代表を辞任。同年6月4日、その後任として県連代表に就任[57]

2012年2月10日復興庁発足に伴う補充人事により野田第1次改造内閣経済産業大臣政務官に任命され、野田第2次改造内閣まで務める。

同年12月16日の第46回衆議院議員総選挙では、愛知12区から民主党公認、国民新党推薦で立候補。自民党は青山秋男県議の長男の青山周平を擁立[58]。小選挙区では青山に敗れるが、比例復活し、3選[59]。同年12月25日に行われた民主党代表選挙では海江田万里の推薦人に名を連ねた[60]。2013年3月17日、衆院選惨敗の責任をとって民主党県連代表を辞任[61]
2014年衆議院議員選挙

2014年11月11日、自民、公明両党の幹部は次期衆院選について「12月2日公示・14日投開票」との日程を想定し、選挙準備に入るようそれぞれの党の関係者に指示した[62]。中根も愛知12区からの立候補の準備に入るが、公示日前日の12月1日午前、民主党の海江田万里代表から電話で「小選挙区を降りて比例区に回ってほしい」と告げられる。同日午後、岡崎市の事務所を訪れた岡田克也代表代行からも「比例東海ブロック単独1位とする。決定を受け入れられないなら無所属で出馬してくれ」と命じられ、比例区単独に回ることを決めた。岡田は中根に「ここで譲歩しないと、維新の党は全国すべての地域での連携を見直すと言っている」と述べ、維新の党側から圧力があったこともほのめかした。この鞍替えにより、外形上、民主党は12区の候補者を維新の党の重徳和彦に一本化した形となった[63][64][65]

同年12月2日、連合愛知は中根の出陣式を終えると、12区の選挙対策本部を解散した。清水貞雄副会長は「組合員には比例で民主に入れるよう求めるが、12区で特定の候補への投票を呼び掛けることはしない」と語った[66]。12月14日、第47回衆議院議員総選挙執行。中根は比例単独1位で早々と当選を決め、4選を果たした[67]


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