尊敬する人は101歳で死去した母・芳野であり、東京都知事選への出馬を促したのも母だったという[14][15]。
野球などのスポーツに造詣が深く、1990年(平成2年)には日本人として初めてメジャーリーグ球団ピッツバーグ・パイレーツの始球式を行っている[16]。
「君が代」をコンピュータで行進曲調にアレンジし、歌詞は原曲の通りに自身で吹き込んだシングルCDを発売したことがある[17]。
20歳の頃にセックスをすると頭が悪くなるとも主張しており、自身も24歳までセックスをしていなかったという[18]。
一時期南青山のマンションに事務所を構えていた際、そのマンションには柴田亜美が居住していた[19][20][21]。 2013年12月に受けた健康診断で前立腺導管がんと診断された。[22] 2015年に「前立腺導管がんで余命は平成27年末日までと告知された」と公表した。[23] その後、6年に渡るがん治療で、PSA検査の結果、直ったと判断できる0.01という数値が出て寛解と判断された。[24] 努力と粘り強さをモットーとしている。海軍機関学校の出身であるが[25]、入学試験時の身体測定時に、胸囲測定において意地悪な水兵に腹に近い部分を測定され基準以下となり不合格となりそうになるも、試験場でたまたま出会った将校に検査の顛末と自分がいかに勉強と身体鍛錬を重ねたかを訴えた結果、再測定が叶い、合格した[26]。 「ドクター・中松」という通称で知られているが、中松が保有するとされる博士号(ドクター)の存在は確認されていない[27][28]。 1991年東京都知事選挙に無所属で立候補、“21世紀の地球都市を発明する”の基本政策を掲げ、自作のジャンピングシューズ(ピョンピョンシューズ又はフライングシューズ)を履いたパフォーマンスを行った[7]。結果はわずか2万7,145票で惨敗ではあったが、一方でバラエティー番組に「奇抜な発明家」として登場する機会も増えた[7]。 翌1992年(平成4年)の参院選には比例区に政党「発明政治」を率いて出馬したが落選した[7]。 また、1995年東京都知事選挙に立候補を表明するも[29]、告示前に断念し[30]、上田哲候補の応援に回っている[31]。 2003年(平成15年)の都知事選では、会見で「ドクター・中松ディフェンス (DND)」という発明品で、「ミサイル攻撃を防止できる装置の発明で、首都を、そして都民をこのミサイル攻撃から救う」「北朝鮮のミサイルをUターンさせられる」などと発表した[7]。 2005年(平成17年)のインタビューで「元来、政治家は国のために働くもの。『国のため』という気概をどの程度が持っているかが重要なポイントだ」と政治家には愛国心が必要であると主張した[32]。 2007年(平成19年)、第21回参議院選挙に立候補した際に発表した「ドクター・中松ドクトリン」には、「私にしか出来ない最先端の発明が日本のためになる」「官僚はよく働く者のみなし数を1/2にする」「現行憲法は存在しない。現行憲法の名称は大日本帝国憲法の昭和二十一年改正であるべきである」等記載されていた。2013年(平成25年)に「真の近現代史観」懸賞論文で佳作を受賞した論文「日本は負けていない」でも同様の主張を行っている[33]。 2011年(平成23年)の都知事選に無所属で出馬した時には記者会見で、当選しない場合はあと10回以上選挙に挑戦し続けると宣言した[34]。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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