「中東」はオスマン帝国の崩壊を背景にイギリスの最も重要な植民地であったインドに至る地域(トルコ、エジプト、シリア、イラクなど)を指す呼称として次第に形成された[2]。また、「近東」は東方問題が焦点となる中でオスマン帝国の領域を可視化する呼称として形成された[2]。そのため、当初の「中東」の概念は第二次世界大戦後に定着したものとは大きく異なる[2]。「近東」とはトルコやアラブ世界にバルカン半島を含む地域を指す[2]。また、第二次世界大戦以前において「近東」と並行して「中東」が用いられる場合、イランとコーカサス、アフガニスタン、中央アジア、さらに広義にはインドシナ半島やトルキスタンに至る地域を含むことがあった[2][4]。
第二次世界大戦が起こるとイギリスは北アフリカや西アジアでドイツやイタリアなどと対戦し、そこでは作戦上使用する呼称として中東(MENA)が使われるようになった[4]。
第二次世界大戦後は中東と近東の区別が曖昧になり、ニューヨーク・タイムズは同じ地域に2つの呼称を使用していたが1954年に「中東」に表現を統一した[4]。また、アメリカも1957年のアイゼンハワー・ドクトリンで公式文書として初めて「中東」を使用し、1958年の国務省の見解で「中東」と「近東」は交換可能な用語と説明された[2]。 冷戦崩壊以降、国際安全保障環境は民族・宗教対立の表面化、核拡散、国際秩序の地域分化などが顕著となった。アメリカは、産油国でありながらかつ紛争の絶えない中東への介入を拡大させ、湾岸戦争後はイラクに対する敵視政策を拡大してきた。2001年における4年ごとの国防見直し (QDR) においては中東から東アジアにかけての広い地域を不安定の弧と位置づけ、対アジア戦略の中枢に据えてきた。中でも中東は紛争の絶えない地域でありアメリカの世界戦略の軸とされてきた。 こうしたアメリカの中東への介入によりアルカーイダはアメリカに対する敵視・敵対・テロ活動を増大させ、2001年にアメリカ同時多発テロ事件が勃発、アメリカの富の象徴、ニューヨーク・マンハッタンの世界貿易センタービル(ワールド・トレード・センター)、並びにアメリカの国防機関の中枢、国防総省へのテロが発生し、時のジョージ・W・ブッシュ大統領は、このテロを「新しい戦争」と呼び、ますます中東への介入を強めた。 しかし、国際法上、テロに対する戦争が困難だったアメリカはテロ支援国家を攻撃することによりこれに対抗しようとした。その結果がアフガニスタンのターリバーン政権打倒であり、イラク戦争であった。イラク戦争をはじめとするアメリカの中東戦略は国連安保理の承認を経ずに自国とイギリスを中心とした有志連合によって攻撃をしたため、国際社会から批判された。 アフガニスタンに対してはアフガニスタン戦争でターリバーン政権を打倒し、国連安全保障理事会で採択したアフガニスタンの再建・復興プロセスに基づいて、暫定国会選挙、新憲法案の採択、憲法承認国民投票、正式国会選挙、大統領選挙と政府の樹立などの政治体制の変革を遂行し、2014年末中のアフガニスタンへの派遣軍の全軍撤退をめざしているが、ターリバーンによるテロは収束せず治安回復や復興計画が進展していない[5]。
アメリカの中東戦略