にだいめ なかむら しどう
二代目 中村 獅童
スペースFS汐留にて(2011年8月29日)
屋号萬屋
定紋桐蝶
生年月日 (1972-09-14) 1972年9月14日(51歳)
本名小川 幹弘(おがわ みきひろ)[1]
襲名歴1. 二代目中村獅童[1]
出身地 日本・東京都[1]
父初代中村獅童
母小川陽子
妻竹内結子(2005年 - 2008年)
足立沙織(2015年 - )
子小川陽喜
二代目 中村 獅童(にだいめ なかむら しどう、1972年〈昭和47年〉9月14日 - [1])は、日本の歌舞伎役者、俳優・声優。歌舞伎名跡「中村獅童」の当代。本名:小川 幹弘(おがわ みきひろ)[1]。日本大学藝術学部演劇学科中退。2014年4月より学校法人メイ・ウシヤマ学園ハリウッド大学院大学客員教授。2013年4月より京都文教大学客員教授。中村獅童事務所所属(エイベックス・マネジメントと業務提携)[3]。公称身長177cm・体重70kg・O型[4]。 歌舞伎の名門・小川家(旧播磨屋、現・萬屋)に生まれる。父は元歌舞伎役者の初代中村獅童(本名:小川三喜雄)。 父・三喜雄は幹弘が産まれる以前の子役のころに歌舞伎役者を廃業したが、親戚や従兄の舞台を観に行くことが多く、見た事のない夢の空間・異空間に魅かれたという[5]。獅童自ら舞台に出たいと祖母に頼み、6歳より日本舞踊と長唄を始めた[6]。 1981年(昭和56年)6月歌舞伎座『妹背山婦女庭訓』「御殿」の豆腐買の娘おひろで二代目中村獅童を名乗り、8歳で初舞台。父・三喜雄も名乗った名跡「獅童」は、祖父三代目中村時蔵の俳号に由来する。この6月大歌舞伎は従兄弟にあたる五代目中村歌六・三代目中村歌昇・五代目中村時蔵とともに萬屋一門4名の襲名披露興行だった。 師匠は不在、付き人もおらず、楽屋の支度は全て母が付き添って行ったという[7]。 子役を過ぎた中学時代から役がつかなくなり、その頃からロックに傾倒しバンド活動をしている。明星学園高等学校卒業(第59回生)後、1990年に日本大学藝術学部演劇学科に入学。役者を続けることに家族は反対していたが、歌舞伎を離れていくにつれ逆に歌舞伎への憧れが強まり、大学を中退[8]。20代半ばより、歌舞伎と並行して野田秀樹や大人計画などのオーディションを受け始めるが落選が続いた。 しかし、2002年公開の映画『ピンポン』で準主役(ドラゴン役)を射止め、日本アカデミー賞、ゴールデン・アロー賞(映画新人賞)、ブルーリボン賞、日本映画批評家大賞、毎日映画コンクールの各新人賞5冠を受賞。以降、多数の映画やドラマに出演するようになり、声優としても活動している。悪役や強面に似合わない性格を持った役柄を演じることが多い。 歌舞伎役者としては長身(177cm)で、武張った雰囲気を持つ立役である。花形歌舞伎・大歌舞伎などへの出演のほか、十八代目中村勘三郎の企画のコクーン歌舞伎・平成中村座公演や野田版歌舞伎、五代目坂東玉三郎の舞踊公演や泉鏡花ものの公演に複数回出演をしており、シネマ歌舞伎化もされている。十一代目市川海老蔵が企画する六本木歌舞伎・古典への誘いにも出演している[9][10]。
来歴