中日新聞
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1971年(昭和46年)9月1日 - 株式会社中部日本新聞社から『株式会社中日新聞社』に社名を変更[注 4]。名古屋市中区三の丸一丁目に現在の社屋が完成。

1972年 (昭和47年) - 『中日新聞縮刷版』の刊行開始。

1973年(昭和48年)4月 - 東京都千代田区内幸町二丁目に「日比谷中日ビルディング」(現在の東京本社所在地)完成。

1981年(昭和56年) - 静岡県浜松市東海本社を開設。静岡県版の印刷・発行を名古屋本社から承継。

1984年(昭和59年)- 『ちびっこ紳士』連載5,000回突破。2月、同連載を『ほのぼの君』に改題。

1986年(昭和61年) - 創業100周年。名古屋本社のCTS(電子写真植字システム)『センチュリー』計画完了。

1993年平成5年) - 『日刊福井』の発行を株式会社日刊福井から継承(北陸中日新聞の福井版と統合)。

1994年(平成6年)6月 - 『日刊福井』が『日刊県民福井』に改題。

1999年(平成11年) - 2月1日付朝刊より発行者名義を「中日新聞本社」から「中日新聞社」に変更[注 5]

同年2月 - 岐阜総局が岐阜支社に昇格。

2000年(平成12年) - 1月1日付より、「発行所」と「社章」「中日新聞社」の間の改行がなくなり、1行で表記されるようになる。また、朝夕刊ともに同一のクレジットとなる。

2003年(平成15年) - 各種のコンピュータ機能を1台のパソコン端末に集約、整理記者が1人で紙面編集できる編集組版システム『サムライ』に全面移行。

2006年(平成18年)- 創業120周年。

同年10月1日 - 東京本社が港区のJR品川駅港南口の旧社屋から、日比谷中日ビルディングに移転。

2007年(平成19年) - 前年暮れより佃公彦がパーキンソン病にて体調を崩したことから3月8日、15,451回の新聞漫画歴代最長記録(当時)をもって『ほのぼの君』の連載を終了。7月、さくらももこによる朝刊4コマ漫画『ちびまる子ちゃん』連載開始。

2008年(平成20年)12月 - 長年金曜日の朝刊に折り込まれていた別刷り「週間テレビガイド」が廃止、2009年1月から「週間テレビガイド」はサンデー版に内包される。

2010年(平成22年)- 朝日新聞社との提携で新聞相互委託印刷を行うことで基本合意。

同年10月12日 - 北陸本社石川県金沢市南町から、同市駅西本町の新社屋に移転。

同年12月 - 旧東京本社跡地(港区港南)に再開発ビル「品川フロントビル」が完成。

2011年(平成23年)8月 - 子供向け週刊新聞『中日こどもウイークリー』を創刊。12月31日『ちびまる子ちゃん』連載終了。

2012年(平成24年)2月 - 森栗丸による朝刊4コマ漫画『おーい 栗之助』連載開始。

2014年(平成26年)1月 - 元日付より紙面リニューアル。フォントの拡大や天気予報欄のレイアウト変更などを実施。

2015年(平成27年)1月1日 - 戦後70年企画として、読者投稿による「平和の俳句」(選者:金子兜太いとうせいこう)を東京新聞と共同で1面で掲載。当初は1年間の掲載を予定していたが、好評により2016年以降も継続される。

2016年(平成28年)- 創業130周年。

2017年(平成29年)- 3月31日、『おーい、栗之助』終了。4月1日、 青沼貴子による朝刊4コマ漫画『ねえ、ぴよちゃん』連載開始。

2020年(令和2年)10月1日

新聞製作に関わる経費と流通経費の上昇により新聞発行、戸別配達網の維持が厳しいことを理由に1994年2月以来、26年ぶりに宅配購読料を値上げ。これまでの4,037円から4,400円(本体4,074円+税326円)に引き上げた[7]

紙面リニューアル実施。朝刊1面のレイアウトを変更し、「きょうの紙面」[注 6]を拡充。紙面内の記事から気になった名言を一言選び出した「言の葉(ことのは)」欄[注 7]を題字横に、当日の紙面から印象的な数値をピックアップした「ニュースな数字」欄を「きょうの紙面」内にそれぞれ新設。


2022年(令和4年)2月17日 - 「中日新聞電子版」のサービス開始[8]

2023年(令和5年) - 9月1日付朝刊より記事の表記が漢数字からアラビア数字に変更[9]

2023年(令和6年)4月1日 - 「中日新聞電子版」のサービスを拡充[10]

論調・社説

今でこそ日本国内の主要商業新聞の中では朝日新聞と並んでもっとも進歩主義的な論調だが、合併前の2紙(旧新愛知、旧國民新聞)は現在とは異なる思潮に立っていた。

戦前の旧新愛知は立憲政友会系ということもあり、右寄り路線だった。1933年に旧新愛知が買収した旧國民新聞も同様の流れに属していた。また旧名古屋新聞は昭和初期の二大政党制では立憲民政党に近い立場を取っていた。立憲民政党はどちらかといえばリベラル(自由主義、政治的穏健な革新)に近かったものの、当時は社会主義共産主義を掲げる政党が軒並み非合法とされていたため、戦後日本の左派政党とは思潮(思想)や支持層が根本的に異なる。


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