2009年まで在籍した立浪和義の背番号「3」も一部有志が永久欠番にしようとして署名活動も行われたものの、実現しなかった[214]。2010年からは森野将彦が受け継ぐことが球団から一旦発表された。しかし、森野の要望により2010年は欠番扱いとなった[215]。背番号3は2011年から高校の後輩である吉川大幾が、2015年からは高橋周平が着用している。
1954年に日本一になった時の最大の功労者である杉下茂の背番号20も永久欠番になっていない。これは、中日で服部と西沢を欠番にするのは両者を辞めさせるときの「妥協点」であり、服部や西沢と違い杉下は当時監督としてチームに残る予定だったので、「保留」にしてもらったという、杉下茂の談話が中日の球団史に掲載されている[216]。
また、2015年限りで現役引退した山本昌が入団から着用した34番も永久欠番制定については固辞したとサンケイスポーツから報道されており[217]、2016年からは新人で同じく左腕の福敬登が継承した[218][219]。故障の治療のため福が育成選手契約となった2018年は一時的に空き番とし[220](234番に変更[221])、シーズン途中の支配下登録復帰時に改めて34番を福に与えた[221]。 ドラゴンズで沢村栄治賞を複数回受賞しているのは杉下茂のみである[222]。また、杉下は日本プロ野球史上初の沢村賞複数回受賞および日本プロ野球史上初の3回受賞も達成。杉下の3回受賞はプロ野球最多タイ記録となっている。歴代のドラゴンズ選手の受賞者で生え抜き選手では無いのは小川健太郎のみである。 ドラゴンズでの投手三冠王の達成者は3人[223]。 2022年シーズン終了時点で達成者はいない[224]。 2022年シーズン終了時点で複数回受賞の達成者はいない[225]。 2022年シーズン終了時点で複数回受賞の達成者はいない[225]。 球団マスコットは以下の3体。詳しいことはそれぞれの記事を参照。1981年から1996年までは、竜の顔をモチーフにしたヘルメットをかぶり、Dのマークが入ったバットを持った少年(通称:ドラ坊や)をペットマークに使用。 中日ドラゴンズのオフィシャル・チアリーディングチームの名称。球団の本拠地がナゴヤ球場からナゴヤドームに移転した1997年にシャオロンのデビューとともに結成された。詳しくはチアドラゴンズを参照。 発足から現在までに4代(球団名を「ドラゴンズ」として以降は3代)の公式球団歌が存在するが、後述の応援歌「燃えよドラゴンズ!」の方が幅広く浸透している。
沢村栄治賞受賞者
杉下茂 :3回(1951年、1952年、1954年)※最多タイ記録
権藤博 :1回(1961年)
小川健太郎 :1回(1967年)
星野仙一 :1回(1974年)
小松辰雄 :1回(1985年)
今中慎二 :1回(1993年)
山本昌広 :1回(1994年)
川上憲伸:1回(2004年)
大野雄大:1回(2020年)
三冠王(投手・打者)
投手三冠王
杉下茂 :1回(1954年)
権藤博 :1回(1961年)
小松辰雄 :1回(1985年)
打者三冠王
最優秀選手受賞者(複数回)
投手の複数回受賞者
打者の複数回受賞者
マスコット
球団マスコット
ドアラ - 1994年デビュー。背番号は「000」→「1994」。メインキャラクターとして露出が多い。
シャオロン - 1997年デビュー。背番号は「777」→「1997」。
パオロン - 2000年デビュー。背番号「2000」。
関連マスコット
ガブリ - 2006年に球団創設70周年を記念して設立された球団公式ファンクラブのマスコット。1991年、スタジオジブリの宮崎駿が同僚で中日ファンの鈴木敏夫のために、当時の四番打者・落合博満と竜をモチーフにデザインした。後にファンクラブのマスコットとして提供され、鈴木には名誉会員1号の称号が贈られた。名前は公募でつけられた。
ドムラ - ナゴヤドームのキャラクター。オランウータンとゴリラを合わせたような見た目。2008年シーズン以降、ほぼ見かけなくなってしまっている。
チアドラゴンズ
主な歴代の球団歌・応援歌
球団歌
「昇竜 -いざゆけ ドラゴンズ-」
歌唱は松平健。2015年(平成27年)制定で、NPB加盟12球団の球団歌としては最も新しい。2015年シーズンに向けて作成し、2月28日に発表記者会見がナゴヤドームで行われた[226]。
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