中島飛行機
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中島の後身である富士重工業(現社名・SUBARU)はかつての航空機技術者ともども自動車産業に進出(スバル)、さらに1950年代には念願の航空機産業に参入している(富士重工業#航空宇宙部門)。富士重工業はその創立を「1953年(昭和28年)7月15日」とする一方で、創業は「中島知久平」が「飛行機研究所」を設けた「1917年(大正6年)5月」としている[2]
創業の辞映画『加藤隼戦闘隊』にて、「矢印」の部隊マークを描き飛行第64戦隊機を「演じた」明野陸軍飛行学校の一式戦「隼」二型(キ43-II)たち。

中島は軍務を退き、飛行機報国を念じ「飛行機研究所」を創設するにあたって、以下の内容の手紙を関係者に送っている。惟に外敵に対し、皇国安定の途は富力を傾注し得ざる新兵器を基礎とする戦策発見の一つあるのみ。戦艦一隻の費を以ってせば、優に三千の飛行機を製作し得べく、その力遥かに戦艦に優れり。実に飛行機は一カ月の日をもって完成するを得。故に民営を以って行なう時は一カ年に十二回の改革を行ないうるも、官営にては僅か一回のみ。帝国の飛行機工業は官営をもって欧米先進の民営に対す。今にして民営を企立し、改めずんばついに国家の運命を如何にかせん。 ? 鈴木五郎『疾風―日本陸軍最強の戦闘機』(サンケイ出版、1975年)46頁.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}思うに日本の防衛はお金の掛からない新兵器を基礎とした戦い方を見つけてゆくしかない。戦艦一隻を建造するには莫大な費用がかかるけれども、飛行機なら戦艦一隻の費用で三千機が作れる。(これに魚雷を積めば)その力は戦艦よりも優れている。飛行機は1月で完成する。だから民間なら1年に12回計画を変更できる。しかし国営は1年単位の予算計画だから年1回だ。日本の飛行機工業は官営で民間企業中心の飛行機先進国の欧米と向い合っている。今、民営飛行機会社を作り官営中心の流れを変えなければ国家の運命はどうなるのだろう。—口語訳
沿革元飛行第11戦隊の四式戦「疾風」一型甲(キ84-I甲)

1917年大正6年)5月 - 海軍を休職中であった中島知久平が、群馬県新田郡尾島町養蚕小屋に「飛行機研究所」を創業。

12月21日 - 中島が海軍を正式に退官[注釈 3]、「飛行機研究所」を尾島町から新田郡太田町の旧博物館に移転。所長中島や炊事使用人を含めて僅か9名の研究所であった。


1918年(大正7年)5月 - 川西清兵衛が経営に参画、「日本飛行機製作所」に商号変更。

1919年(大正8年)4月 - 陸軍から20機を受注。

11月 - 中島と川西がトラブル。川西は11月27日、中島に「30日までに所長辞退[注釈 4]か工場買取りか」を迫る。

11月29日 - 新田銀行が10万円を融資し所長退任を免れる。

11月30日 - 中島は川西の申し出通りに会社を買取り提携解消、川西は去る[注釈 5]井上幾太郎陸軍少将の仲介で三井物産と提携。

12月26日 -「中島飛行機製作所」に商号変更。


1920年(大正9年)4月 - 陸軍から70機、海軍から30機受注。

1925年(大正14年)11月 - 東京府豊多摩郡井荻町に東京工場完成。

1931年昭和 6年)12月15日 - 「中島飛行機株式会社」(資本金600万円)と改称する。

1933年(昭和8年) 2月 - 増資により資本金900万円となる。

1934年(昭和9年) 4月 - 社章を制定する。

11月1日 - 太田町に新しい機体組み立て工場・太田工場(現・SUBARU群馬製作所)が完成する。旧太田工場は「呑竜工場」と改称する。

11月16日 - 昭和天皇が太田工場に行幸[3]


1937年(昭和12年) - 九七式戦闘機が陸軍に制式採用。

3月25日 - 増資により資本金2,000万円となる。

7月1日 - 太田工場を太田製作所に、東京工場を東京製作所に改称。


1938年(昭和13年) 4月 - 主に陸軍向けのエンジン組み立て工場として東京府北多摩郡武蔵野町西窪に武蔵野製作所(現:NTT武蔵野開発センタ、都営武蔵野緑町二丁目アパート)を開設。

6月 - 東京府北多摩郡田無町に田無鋳鍛工場を開設。

11月2日 - 増資により資本金5,000万円となる。


1939年(昭和14年) 11月15日 - 田無鋳鍛工場を独立させて中島航空金属を設立。

1940年(昭和15年) 4月20日 - 海軍機専用組み立て工場として群馬県邑楽郡小泉町大川村小泉製作所(現:パナソニック東京製作所)を開設[注釈 6]。太田製作所は陸軍機専用組み立て工場となる。

1941年(昭和16年) - 一式戦闘機「隼」が陸軍に制式採用。

2月 - 太田町・小泉町に太田飛行場(現:SUBARU大泉工場)が完成する。

11月1日 - 海軍向けのエンジン組み立て工場として武蔵野製作所の西隣りに新たに壁を設けて多摩製作所(現・武蔵野中央公園)を開設。


1942年(昭和17年) - 興亜工業大学の実習教育を受け入れを始める。

1943年(昭和18年)11月1日 - 陸軍向けの武蔵野製作所と海軍向けの多摩製作所を合併して新たに武蔵製作所とし、旧武蔵野製作所を東工場、旧多摩製作所を西工場とする。

1944年(昭和19年)1月 - 陸軍機専用組み立て工場の宇都宮製作所を開設、制式採用された四式戦闘機「疾風」の生産を開始。


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