中島 重(なかじま しげる[1][2][注 2]、1888年(明治21年)5月3日 - 1946年(昭和21年)5月29日[1][2])は、日本の法学者、社会学者、キリスト教思想家。
法学上の専門は憲法学(美濃部達吉門下)で、社会学上の専門は国家論。元同志社大学および関西学院大学の教授。
日本の政治学及び社会学に多元的国家論をもたらし、また当時のキリスト教思想に対して賀川豊彦と共に社会的基督教の論を唱えた一人として知られる。 1888年、岡山県上房郡松山村広瀬(現在の高梁市松山字新田。備中広瀬駅付近)の、大高檀紙[注 3]製造家を祖に持つ柳井重宜の三男として生まれる[2]。 三男という立場から父の弟(叔父)の養子先にして獣医家であった中島家へと養子に出された[2]。柳井家および中島家は自家の仕事上、西洋の知識を学び文明開化を促進させたいという立場にあったため、当時に高梁周辺に伝播していたキリスト教を受容する方針をとっており、重もまた高梁基督教会堂へ英語などの西洋知識を学ぶため幼少期より同教会の日曜学校に通った[3]。 1907年に高梁中学校を卒業し、第六高等学校に進学[2]。若きにおいては内田百らと交友し自家がとる西洋思想に対する傾きへの反発から高山樗牛の日本主義に心酔するも、その後、高山の極端な幾度にもわたる思想変節を目の当たりにして回心し、第六高等学校在籍時の1910年に22歳で高梁基督教会堂にて当時の高梁教会担当牧師であった溝口貞五郎によって受洗する。のち東京帝国大学法科[注 4]に学び、美濃部達吉および吉野作造に師事[4]。吉野との関わりから本郷教会に出入りするようになり、当時同教会で牧師を務めていた海老名弾正の元に信仰を深める[4]。 1916年帝大法科卒。海老名の薦めにより同志社大学に法学部教授として就職。1922年に『多元的国家論』を著し、1925年に同校へ講演に訪れた賀川豊彦と知己を得る[5]。賀川と共に貧困問題に取り組む中、社会運動主義の限界に行き当たった両者は精神運動へと舵を切り替え「神の国運動」へと至る。賀川はこれを宗教者による救霊運動として展開したが、一方の中島はこれを学者・学生による学究および民生向上のための啓発運動として展開した[6]。
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