中岡慎太郎
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これにより、慎太郎は同日、京都(御花畑)の薩摩藩家老小松清廉寓居[5] で、土佐藩の谷干城毛利恭助らとともに薩摩藩の西郷吉之助(のちの隆盛)らと武力倒幕を議する事となった。


西郷吉之助薩摩藩小松帯刀(薩摩藩)中岡慎太郎(土佐藩)谷干城土佐藩乾退助(土佐藩)

乾が後年、談話(『維新前後経歴談』)で語った内容によれば、彼は「私に三十日の日を仮(か)してくれれば、土佐へ行って兵を募る。その兵を募ることが出来なかったら私は割腹する」と誓い、慎太郎もまた「私が西郷さんの所に人質に残って、乾の言うことが無になったら私が割腹する」と決意を述べたことで、西郷の信頼を得て、出兵の密約を結んだ(薩土密約[6]

ただし、近年の研究によれば、この出兵の約定は、乾や西郷らが個人の資格で結んだものであり、藩を代表した密約とはいえないとされる[7]「薩土討幕之密約紀念碑」
密約が締結される前段階として京都東山の「近安楼」で会見がもたれたことを記念する石碑
京都市東山区(祇園)
薩土盟約の仲介

6月17日、土佐藩参政・後藤象二郎は、前土佐藩主・山内豊信に、幕府に自ら政権を返上させ、朝廷を中心とした新政府を樹立する「大政奉還」の構想を進言し、その実現のための建白運動の了承を得た(大政奉還は従来、坂本龍馬が後藤に献策したとされていたが、現在は、龍馬の献策書「船中八策」は後世の創作であるとの説が有力であり[8]、龍馬がどの程度、立案に携わったかは不明)。

22日、慎太郎と龍馬の仲介によって、土佐藩の後藤象二郎、福岡孝弟真辺栄三郎寺村左膳の4名と、薩摩藩の小松帯刀西郷吉之助大久保一蔵の3名の在京重役が、京都三本木の料亭・吉田屋に一堂に会した。後藤ら土佐側はこの会合で、大政奉還の建白を推進していくことを説き、薩摩側もこれを了承し、両藩の提携が結ばれた(薩土盟約)。また、後藤は建白にあたって、土佐藩兵二大隊を率いて上洛し、将軍に圧力をかけることを薩摩側に約した[9]

研究者の家近良樹によれば、西郷らがこの土佐の方針を承認したのは、「万が一、将軍が政権を朝廷に返上して王政復古が実現すれば、それはそれでよい、反対に大政奉還運動が失敗すれば、武力倒幕に踏み切るうえで公然たる名目がたち、いずれにせよ、西郷らにとっては好都合なプランの提示だった」[10]からだと考えられるという。

一方、慎太郎と龍馬が仲介した理由については、会合の翌日23日、佐々木高行の日記『保古飛呂比』に彼らの考えが記されている。それによれば、慎太郎たちは、「これまで土佐藩は幾度も藩論を変えたため、薩摩藩は土佐への疑念を解いていない」「大政奉還を土佐藩が主張し、その主体となれば、薩摩藩も必ず信用するだろうし、薩長人も土佐が主体的な提案をすることを望んでいるだろう」と述べている[11]ように、運動の結果がどうあれ、まずは土佐藩が京都政局に自ら参加し、薩長からの信頼を得て、雄藩同士の提携が進むことを狙っていた。

また、慎太郎はこの前年の10月26日時点ですでに、『時勢論 二』(窃ニ示知己論)において、大政奉還の必要性を説いているように、必ずしも武力倒幕一辺倒ではなかった。
岩倉具視との協力

慎太郎は、朝廷内の政局を掌握するため、有力な公家との提携を企図していたが、大事を担えるほどの人物はなかなかいなかった。

あるとき、橋本鉄猪(大橋慎三)に、岩倉具視を訪ねるよう勧められる。岩倉は、「佐幕の大奸」として志士たちから忌み嫌われる存在であったため、慎太郎は当初、気が進まなかったが、実際に会ってみると、優れた能力と見識を備えた人物であった。

慎太郎は考えを改め、王政復古のため、岩倉との協力関係を深めていく。また、岩倉に龍馬を引き合わせたり、太宰府の三条実美と和解・協力させるなど、周旋のために尽力した。
陸援隊結成

7月、慎太郎は洛外白川村の土佐藩邸(京都河原町の土佐藩邸とは別)に浪士たちを集め、陸援隊を組織し、自ら隊長となる。藩当局から承認を得たのは27日、白川村の藩邸に入ったのは29日のことである[12]

これに先立つ7月22日、慎太郎は、土佐藩・大目付(大監察)本山只一郎へ書状を送っている[13]。(前文欠)又、乍恐窃に拝察候得者、君上御上京之思食も被爲在哉に而、難有仕合に奉存候。然此度之事、御議論周旋而己に相止り候得者、再度上京の可然候得共、是より忽ち天下之大戰争と相成候儀、明々たる事に御座候。然れば、實は上京不被爲遊方宜敷樣相考申候。斯る大敵を引受、奇變之働を爲し候に、本陣を顧み候患御座候而は、少人數之我藩別而功を爲す事少かるべしと奉存候。

乍恐、猶名君英斷、先じて敵に臨まんと被爲思召候事なれば、無之上事にて、臣子壹人が生還する者有之間敷に付、何之異論可申上哉、只々敬服之次第也。此比長藩政府之議論を聞に、若(し)京師(に)事有ると聞かば、即日にても出兵せんと決せり。依て本末藩共、其内令を國中に布告せり。諸隊、之が爲めに先鋒を争ひ、弩を張るの勢也との事に御座候。
右者、私内存之處相認、御侍中、并(ならびに)、乾(退助)樣あたりへ差出候樣、佐々木(高行)樣より御氣付に付、如此御座候。誠恐頓首。
(慶應三年)七月廿二日、(石川)清之助。
本山(只一郎)樣玉机下。
匆々相認、思出し次第に而、何時も失敬奉恐謝候[14]

研究者の平尾道雄は、上記の書状について、「議論周旋も結構だが、しょせんは武器をとって立つ覚悟がなければ空論となろう。薩長の意気をもってすれば近日開戦は必至の勢であるから、容堂公の上京も、その覚悟がなければ中止した方がよろしい」と要約している[15]。先の薩土盟約を仲介し、大政奉還の推進に協力した慎太郎であったが、一方で、武力倒幕の可能性も視野に入れて動いており、この前年11月には、『時勢論 三』(愚論窃カニ知己ノ人ニ示ス)の中で、長州を手本にした軍制改革を、土佐の同志たちに向けて詳細に説いている。

また、9月22日にも、慎太郎は、土佐在国の同志・大石弥太郎(円)宛てに「兵談」と題した書状をしたため、より具体的な軍隊編成案を説いた。


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