総面積は9.38平方キロメートル。広州南キャンパスは1.17平方キロメートル、北キャンパスは0.39平方キロメートル、東キャンパスは1.13平方キロメートル。珠海キャンパスは3.48平方キロメートル。深?キャンパスは3.21平方キロメートル。
校訓懐士堂南側の校訓
1923年11月11日国立広東大学開校式典で孫文が揮毫した「博学、審問、慎思、明辨、篤行」を校訓とする。
歴史概要
学校の主体
1924年(民国13年)11月、孫文によって広東高等師範学校、広東公立法政大学
アメリカのキリスト教長老会によって1888年(清光緒13年)に設立されたミッション系の大学。文学部、理工学部、医学部、農学部、商学部、理科研究所、社会科学研究所によって構成されていた。 2001年に合併した中山医科大学の前身は1866年(清同治5年)に設立された博済医学堂。
1885年(清光緒11年)、アメリカのキリスト教長老会が中国広東省にミッション系大学を設立する事で同意。
1886年(清光緒12年)-1887年(清光緒13年)、長老会のハッパー牧師を中心に、アメリカにて「嶺南基金」を設立。
1888年3月28日(清光緒14年)、格致書院(Christian College in China)として開校。初代校長はハッパー牧師。
1900年(清光緒26年)、義和団の乱の影響でマカオに移転。
1903年(清光緒29年)、嶺南学堂(Canton Christian College)に改名。
1904年(清光緒30年)、広州に復帰。
1906年(清光緒32年)、中国初の男女共学校となる。
1912年(民国元年)、嶺南学校(Canton Christian College)に改名。
1927年(民国16年)、私立嶺南大学(Lingnan University)に改名。同時に中国人によって学校運営がされるようになる。初の華人校長は鐘栄光。
1938年(民国27年)、日中戦争の影響で香港へ移転。香港大学の校舎を間借りして授業を継続。
1941年(民国30年)、第二次世界大戦の影響で停校。
1945年(民国34年)、戦争終結と同時に広東省へ戻り、復校と。
1952年、私立嶺南大学が中華人民共和国の大学再編に伴って中山大学などに再編されて消滅。
1967年、香港で嶺南大同窓生を中心に嶺南書院を再建。1999年7月に嶺南大学となる。
中山医科大学(1866年 - 2001年)
博済医学堂(1866年 - 1953年)
1835年(清道光15年)、アメリカの会衆派教会の医者ピーター・パーカー(Peter Parker)、広州にて眼科医局(Ophthalmic Hospital in Canton)を設立。
1859年(清咸豊9年)、博済病院(The Canton Hospital)に改名する。
1866年(清同治5年)、アメリカ合衆国長老教会の宣教師・医者ジョン・グラスゴー・カー(John Glasgow Kerr)、博済病院にて博済病院構内医学堂/博済医学堂(Pok Tsai Medical School in The Canton Hospita)を設立。
1879年(清光緒5年)、博済病院南華学校に改名する。
1930年(民国19年)、私立嶺南大学に吸収される。1934年、私立夏葛医学院
広東公医医学専門学校(1909年 - 1953年)
1909年(清宣統元年)、博済病院南華学校の修了学生、広州にて広東公医医学専門学校を設立。
1921年(民国10年)8月、広東公医医科大学に改名する。
1925年(民国14年)、国立広東大学に吸収合併される、国立広東大学医学院に改名する。
広東光華医学社(1908年 - 1953年)
1908年(清光緒34年)、広東光華医学社を設立。
1909年(清宣統元年)3月、広東光華医学専門学校に改名する。
1929年(民国18年)、広東光華医学院に改名する。
中山医科大学(1953年 - 2001年)
1952年、私立嶺南大学医学院、国立中山大学医学院、広東光華医学院を合併し。1953年8月、華南医学院として設立される。
1956年9月、広州医学院に改名する。
1957年3月、中山医学院に改名する。
1985年6月、中山医科大学に改名する。
2001年10月、中山大学と合弁し、中山大学中山医学院となる。