中山博道
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竹刀で練習充分だから日本刀も同様だと考える多くの人に対する警告の実例」と嘆いている[7]
杖術

神道夢想流杖術内田良五郎玄洋社初代社長平岡浩太郎の実兄、黒龍会創始者内田良平の父)から学んだ。杖術を学んだことによって剣道の裏が分かり、杖の技が剣に大いに役立ったという。現代剣道、居合道と並ぶ現代杖道普及の端緒を開いた。
柔術

博道は、「故郷(富山市)においては剣道ではなく、柔術を9歳頃から17歳ぐらいまで修行した」と述べている[8]。師は高山藤吉という人物であったという[9]。その後柔術を人前で見せることはなかったようであるが、同じ根岸門下であった稲村幸次郎の道場を訪れた際には、稲村と様々な柔術流派の技を試し合ったという。

合気道創始者の植芝盛平と親交があり、弟子を植芝の道場皇武館に派遣して剣道を指導させたり、高弟の中倉清を植芝の婿養子にするなどした。

また、大学生時代に有信館の門人であった空手家小西康裕神道自然流空手創始者)によれば、当時、本土に伝わった唐手(空手)を低級な武道と見なす武道家が多い中、博道は唐手の真価を見抜き、「唐手は素手による剣術である」と評価したという。
異種稽古
弓術
弓術を28歳頃から55歳頃まで稽古した。屋外16で稽古し、的前より巻藁を専らとして、目は最高45までに達し、総がけのみを心がけて、1寸1分までに至った。45歳のときにアメリカ艦隊横浜に入港した際、「弓道対剣道」という異種試合があり、剣道側として出場した。木刀を持った博道に対し、弓道教士3人掛かりで白粉のついたタンポを発射した。不利な条件であったが、に2ヶ所白粉が付く程度で済んだという。この経験から「飛び道具を相手にするときは体を動かすことが最大の防御手段である」と述べている[10]
西洋剣術
西洋剣術を研究して、1937年(昭和12年)に長男の中山善道と共著で『日本剣道と西洋剣技』を著した。
銃剣術
雖井蛙流剣術宗家の山根幸恵海軍兵学校剣道教官時代に博道から対銃剣術の技を伝授され、その後は銃剣術を相手に苦しむことはなくなったという[11]
槍術
太平洋戦争中、倉敷海軍予科練の剣道教師をしていた羽賀忠利羽賀準一の弟)が、戦局の悪化による物資不足で海軍司令から槍術の指導を命じられ、羽賀は槍術の経験がなかったため博道のもとに2週間寄宿して槍術の指導を受けた。羽賀が突くと、博道は槍を脇と肘の関節で挟んで封じ、いくら引っ張ってもびくともしなかったという[12]
晩年1952年(昭和27年)、全日本剣道連盟結成。前列中央木村篤太郎、隣中山博道

日本の敗戦後、大日本武徳会占領軍(GHQ)の指令により解散し、剣道の組織的活動は禁止された。博道は戦犯容疑をかけられ、横須賀拘置所に収監された。無罪釈放されたが、高齢でもあったため疲弊し、戦後の混乱で有信館道場も人手に渡ってしまった。戦後は形式的に武道団体の名誉職に就くにとどまった。

1950年(昭和25年)頃から入退院を繰り返し、脳軟化症と診断された。1958年(昭和33年)、死去。享年86。全日本剣道連盟会長木村篤太郎が葬儀委員長を務め、青山斎場において日本剣道葬が執行された。正力松太郎笹森順造小川金之助持田盛二など名士が参列した。戒名は大雄院殿無双博道大居士。師・根岸信五郎と同じ東京都港区南麻布天真寺に葬られた。
段位称号

1893年(明治26年)、神道無念流目録

1902年(明治35年)、神道無念流免許皆伝

1906年(明治39年)、大日本武徳会剣道精錬証

1908年(明治41年)、大日本武徳会剣道教士

1920年(大正9年)、大日本武徳会剣道範士及び居合術範士

1922年(大正11年)、無双神伝英信流抜刀術免許

1927年(昭和2年)、大日本武徳会杖術範士

1957年(昭和32年)、全日本剣道連盟からの剣道十段を辞退

エピソード
学歴
博道は
小学校に入学しておらず、学歴がなかった。ただし武道の研究には熱心であり、弟子の質問に対し「知らぬ」と言ったことがなく、故事や実例をあげ、納得いくまで解説した[13]。全国の剣道家の特徴、長所、短所をそらんじていた。
高野佐三郎との関係
博道と高野佐三郎は近代剣道の双璧と評されるが、高野が10歳年上である。博道が上京した当時、高野は既に明信館という道場を経営しており、根岸信五郎有信館と近い場所(ともに現在の千代田区)にあった。博道がもし明信館に入門していれば高野佐三郎の弟子になっていたことになり、博道は生前に高野とよくこのことを話し合い、「縁とは面白いものだ」と語っていた[14]。高野が東京高等師範学校に奉職し嘉納治五郎の下で体育的な剣道を打ち立てたのに対し、博道はあくまで古流に依拠し、剣道がスポーツになりつつある状況を危惧していた。両者の剣道の方針は同じとは限らなかった。なお、両者の試合記録はないとされるが、『月刊剣道日本』1984年5月号において、同紙編集者が笹森順造のノートに、済寧館で博道と高野が試合をして、高野が上段から博道の小手を見事に打ち勝負が決まった、との内容が書かれていたのを見たことがあると述べている[15]。これについて小川忠太郎は、「高野先生は中山先生とやりたがりませんでした。あれはいつだったかなあ、こんなことがありましたよ。中山先生は高野先生とぜひ立合いたい。で、宮内省のお役人さんを動かして…(中略)それで高野先生は「やる」と承知したんですよ。(中略)大島治喜太先生に聞いたんですが、その試合の二、三組くらい前になったら、高野先生が『中山さん、私は右のが悪いからできない』と、ぱっと断っちゃった。(中略)これはどうかと思うな。高野先生が悪いですよ。引き受けた以上はやらなくちゃ」と述べている[15]
短い竹刀
博道の竹刀1920年大正9年)頃までは普通の竹刀と同じ長さであったが、と同じ尺度に切り詰めることを思い立ち、12、3年かけて、28まで短くした。これを試合に用いた感想として、「遠間から勝つには相当苦労したが、近間に入れば返し技が至極よく決まった。今の私には、長い竹刀は無駄であるとしか考えられない」と述べている[16]
体当たり
身長160cm、体重60kg足らずの小柄な体格であったが、剣道の稽古では体当たりで倒されたことがなかったという。逆に、大相撲引退後に有信館に入門した元横綱大錦卯一郎を体当たりで倒したことがある[17]


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