中山みき
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こうして天理教が立教されたが、みきはしばらくすると屋敷内の内蔵にこもりがちになり、遂には終日出てこずに誰もいないはずの蔵の中で誰かと話をするかのように眩く声が蔵の外まで漏れて聞こえてくることもあった[5]。次第に中山家の評判は悪化し、史実でも庄屋中山善兵衞の名前は天保10年(1838年)3月晦日付「宗旨御改帳」を奉行所へ提出したのを最後に地方文書から消えている[5]

その後、みきは天理王命の神命に従い、例えば、近隣の貧民に惜しみなく財を分け与え、自らの財産をことごとく失うことがあっても、その神命に従う信念は変わらなかったとされる。
布教活動

みきは41歳で「月日のやしろ」に定まったが、幾度か池や井戸などに身を投げようとしたこともあった[9]。その後、内蔵に篭ることもなくなったものの、家財や道具を貧民に施したり、屋敷を取り払ったと言われる。母屋や田畑を売り払えといったみきの言動は家族や親戚のみならず、村人や役人までもが不信感を抱くようになり、天保13年(1842年)には夫・善兵衛をはじめ多くの親族が、みきの行為を気の狂いか憑きものとして、元に戻るように手を尽くしている[9]

この後、長らく具体的な布教は行われず、嘉永6年(1853年)に夫・善兵衛が死去すると、当時17歳であった五女のこかんに浪速(現在の大阪)・道頓堀へ神名を流させに行かせた。翌年、三女・はる懐妊の際にみき自ら安産祈願である「をびや(おびや)許し」をはじめて施した。これが従来の毒忌みや凭れ物、腹帯といった慣習に従わなくても、容易に安産できるとして次第に評判を呼び、これをきっかけとしてみきの評判や教えは広がっていた[9]

元治元年(1864年)ごろにはみきを慕うものも増え、旧暦10月26日に専用に「つとめ場所」を建築。またこの年春ごろより、天理教の救済手段とされる「さづ(ず)け」のはじめとして、みきが信者に授けた扇によって神意をはかることができるとする「扇のさずけ」と「肥のさずけ」を開始[注釈 3]、この頃には辻忠作、仲田儀三郎、山中忠七ら古参として教団形成に影響を与えた人物や、みきから唯一、「言上の許し」を与えられて神意を取り次いだ後の本席である飯降伊蔵夫妻が入信している。しかし、天理教への信仰さえあれば、信者らはみきから「をびや許し」や「たすけ」を受けられ、医者から治療を受ける必要はないと説いたために大和神社の神官や地元の僧侶、村医者などが論難にくるようになり、これは明治7年(1874年)に教部省から出された「禁厭祈疇ヲ以テ医薬ヲ妨クル者取締ノ件」という布達に違反、また明治13年(1880年)に制定され、翌年から施行された当時の大阪府の違警罪の一項「官許を得ずして神仏を開帳し人を群衆せしもの」にも違反し、警察からの取り締まりを受けるなど権力との対立が表面化していった[10][11]。こうしたなかで、信者らは各地に出向き布教を行いはじめ、みきも慶応2年(1866年)、『あしきをはらひて たすけたまへ てんりん(てんり)おうのみこと』の歌と手振りを教示、翌年には『御神楽歌(みかぐらうた)』の製作を開始し、手振りのほかにも鳴り物の稽古もはじめた。地元住民からも苦情が相次ぐ中で、同年に長男・秀司が京都神祇管領吉田家に願い出て、7月23日に布教認可を得て公認となり迫害は収まった。その間にみきは神命に従い、明治元年(1868年)には、『みかぐらづとめ』を完成、翌明治2年(1869年)正月から『おふでさき』を書き始め、第一号(正月)と第二号(3月)を執筆、翌年には『ちよとはなし』『よろづよ八首』の教授、同6年には飯降伊蔵に命じての「甘露台(かんろだい)」の雛形(模型)製作、同8年6月29日(旧暦5月26日)の「ぢば定め」など、天理教の基を築いていった。

しかしながら、このころより官憲の取締りが再び活発化、神具の没収に続いて信仰差し止めの誓約書の署名を強いられた。この中でもみきは天命を貫き通し、1875年(明治8年)には奈良県庁より呼び出しがあり、秀司らとともに留置される。そして明治15年には「かんろだい石」の没収、および『みかぐらうた』の一部改変が断行される[9]。その後もみきだけではなく、信者や家族も度々留置、拘留を受け、1886年(明治19年)には「最後の御苦労」と呼ばれるみき最後の12日間の拘留を受ける[9]。こうした弾圧を避ける為に眞之亮らをはじめ、古参信者らが教会設置公認運動を展開するが教祖中山みきは、教会設立に強く反対し続け、翌年2月18日(旧暦1月26日)午後2時ごろに満88歳(享年90)で現身を隠した(死去)。
死後教祖殿。天理教では、現在もここで生活しているとされる。

みきは生前に神の啓示によって『おふでさき』第三号に「このたすけ百十五才ぢよみよと さだめつけたい神の一ぢよ」と記したように[12]、神にもたれかかって心を澄み切って生きるならば人間の寿命は115歳と説いていた。みきがその寿命を25年も縮めて他界したことは、当時の信者らに多くの動揺を与えた[10]。翌3月25日に飯降伊蔵がみきの後継者・本席となり神の言葉を取り次いだ。その『おさしづ』の中で伊蔵は「子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。[12]」と説明し、子供(=人間)の心の成人(心が澄み陽気ずくめになること)がをや(神)の思惑通りに運ばないから、人々に心の成人を促したのであると教示している。また同時にみきは「現身(うつしみ)を隠した」のであり、「魂は永久に元の屋敷に留まり、存命のまま一れつ人間の成人を見守り、ご守護してくださっている」[13]という教祖存命の理が誕生し、現在の天理教信仰の根本的な精神的支柱となっている。そのため、天理教本部では、みきの魂は教祖殿で生活しているとされ、生前と同じように食事や着替えが運ばれるなど、いろいろな世話がなされている。

その後、本席となり神の言葉を取り次いだ飯降伊蔵は、自身の後継に幼少の頃より教祖に側仕えをしていた上田ナライトを指名したが、上田は、本席ではなく中山家当主を今後の主体として教団を運営管理していきたいとする派閥の、教会内部の権力争いに巻き込まれ失脚することになり、神の言葉を取り次いだ本席の立場は廃止された(なお当の上田ナライトは「ひとつ意思の下で進むことが教祖の望み」として、権力争いについては全く意に介さず、すんなり受け入れたとされる)。

天理教は「神道直轄天理教会」として東京府より認可を受け『みかぐらうた』・『おふでさき』・『泥海古記』は天理教の根本の教義・教典となり、没後も本席・飯降伊蔵の下、『おさしづ』に基づき天理教として布教が行われた。また教祖年祭として、没後翌年に教祖1年祭を開催(最終的に中止)、5年祭、10年祭と続き、以後10年ごとに執行され、2016年1月には教祖130年祭が執り行れた。1934年(昭和10年)からはみきの誕生を記念して教祖誕生祭が毎年、4月18日に開催されている。1956年(昭和31年)3月8日から、午後2時のサイレンがはじまり、現在に至っている[注釈 4]
略歴

1798年寛政10年)06月02日(陰暦4月18日)- 大和国山辺郡西三昧田村で前川家に誕生。

1806年文化04年)- この頃から寺子屋に通う。信仰熱心で12歳のころにはになることを志望している。

1810年(文化07年)10月13日 - 山辺郡庄屋敷村の中山家に嫁ぐ。夫・善兵衛は23歳、みきは13歳。

1816年(文化13年)04月12日 - 勾田村善福寺にて五重相伝をうける。

1838年天保09年)12月09日(陰暦10月23日)- 長男・秀司の加持祈祷のためにみきが加持台になったところ、憑依状態になる。

1838年(天保09年)12月12日(陰暦10月26日)- みきが「月日のやしろ」に定まる。天理教では立教の日とされる。みきは40歳。

1854年嘉永06年)- 中山家の母屋が売り払われる。

1855年安政元年)- をびや許しの開始。

1865年慶応元年)- このころよりみきへの参詣者が増加。7月26日、飯降伊蔵夫妻に扇の伺い、10月26日、つとめ場所が棟上される。

1866年(慶応02年)- 信者に「あしきはらひたすけたまえ」の歌と手振りを教える。6月19日、初代真柱・中山眞之亮誕生。

1867年(慶応03年)- 以後3年間にわたり、みかぐらうた「十二下り」を教える。7月23日に京都吉田神祇管領より認可。

1869年明治02年)- 「おふでさき」の執筆を開始。翌年から「ちよとはなし」と「よろづよ八首」を指導。

1874年(明治07年)- 前川家から神楽面を受け取る。12月26日ごろから赤衣を着るようになる。このころより奈良警察ほか官憲の取締りが活発化。

1875年(明治08年)06月29日 - ぢば定めを行う。この年「いちれつすますかんろだい」の歌と手振り、また「十一通りのつとめ」を教える。9月には奈良県庁より呼出状、翌日出頭し留置。

1882年(明治15年)05月02日 - かんろだい石、赤衣が警察より没収、同時期にみかぐらうたの一部が改変される。翌年11月には、晩年の住まい場所となった御休息所が落成。またこのころ警察からの取調べが活発化し、奈良監獄などに度々拘留。

1886年(明治19年)02月18日 - みき最後の拘留でみき、眞之亮らが聴取を受ける。以後12日間、櫟本分署に引致。天理教では「最後の御苦労」と称している。

1887年(明治20年)- 1月上旬にみきの容態が急変する。2月18日(旧暦正月26日)、午後2時ごろ中山みき死去。満88歳没(享年90)。2月23日、葬儀が教会本部にて執り行われる。火葬後、善福寺に埋葬される。3月25日、飯降伊蔵が本席に就任。

家族一部省略している。

    (前川)きぬ 中山善右衛門 
  
          

  美支(みき) 
中山善兵衛
  
                              
                              


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