中尾 隆聖(なかお りゅうせい、1951年〈昭和26年〉2月5日[2][10][17][18] - )は、日本の男性声優。東京都中央区日本橋出身[9]。81プロデュース所属[11]。
本名:竹尾 智晴(たけお ともはる)[2][5][6]。かつては本名[5][6]や南谷 智晴(みなみや ともはる)[19][3][4]、中尾 竜生[3][4](なかお りゅうせい)の芸名で活動した。 幼少期から家庭の都合で祖父母に育てられる[12]。祖母が「芸能界に向いているんじゃないか」と言われ、祖父母の勧めで、3歳のころに児童劇団「劇団ひまわり」に入団[20][12][15][21]。5歳でラジオドラマ『フクちゃん』のキヨちゃん役でデビュー[20][15][16]。その後、プレイヤーズ・センターを経て[9]、1957年より東京俳優生活協同組合に所属[2][7]。同期には、池田秀一、小柳徹、太田博之、志垣太郎などがいる[7]。中学生で祖父母が経営していたアパートで一人暮らしを始める[12]。 幼い頃から子役の仕事で得てきたお金を祖父母に預けて貯金してもらい、高校進学時に「このお金で大学に行くのもいいし、好きなことに使ってもいい」と貯金通帳を手渡され、その貯金を元手に店を経営して生計を立て、並行して好きな芝居を続けることを考えていた[16][21]。しかし店を始める資金が足らず、役者の仕事のかたわらバーテンダー、弾き語りのアルバイトを始める[16]。北区立滝野川第七小学校(現:北区立田端小学校)[注 2]、早稲田実業学校を卒業[2]後、アルバイトで知り合った人物から「いい物件があるんだけど、店をやってみない?」と声をかけられ、「手持ちがあまりない」と言っていたところ「足りない分はなんとかしてあげるよ」とお金を借り、新宿二丁目でスナックを5年間で借金を返し、さらに2年で閉店するまで経営をしながら、役者の仕事を続けた[16][12]。 25歳で結婚し、2つ3つ掛け持ちでもすれば家族を養えると思い、仕事と並行してアルバイトの弾き語りをしていた[12][23]。役者の仕事は中尾にとって夢であり、役者自体で生活費を稼ごうとは考えていなかった[23]。 ある日、妻から「いつまでも弾き語りなんてできないし、アルバイトを辞めれば」と言われ、「アルバイトを辞めたら生活していけない」と答えていたが、妻は「貧乏だっていいじゃない」と言ってもらい、弾き語りの仕事は辞めて、住んでいた場所もマンションから六畳一間に引越す[12][23]。しかしその頃には店も閉店し、「自分の生き方は間違ってたかな」と思い始めていた[12]。同時期に現・81プロデュースの社長の南沢道義に声を掛けられたものの、「声優の事務所?芝居やりたいから」と断っていた[12]。
略歴