中尊寺金色堂
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調査は朝比奈貞一(理学博士)を団長とする調査団によって行われ、美術史のみならず、人類学者の長谷部言人、微生物学者の大槻虎男、ハスの研究で知られる植物学者の大賀一郎、地元岩手県の郷土史における先駆者として知られた社会経済史学者の森嘉兵衛などの専門家が参加し、遺体についてもエックス線撮影を含む科学的な調査が実施された。調査の結果は『中尊寺と藤原四代』という報告書にまとめられている。エックス線画像診断を担当した足澤三之介(たるざわさんのすけ)の所見によれば、中央壇の遺体が最も高齢で死亡した推定年齢は70歳を越え、死因は脳溢血等の疾患で、左半身に麻痺があったとみられる。年齢的には右壇の遺体がこれに次ぎ60歳から70歳、死因は骨髄炎性脊椎炎と推定される。左壇の遺体は3体の中では比較的若く60歳前後で、長期間患っていた形跡がなく、壮年期に卒中などの疾患で急死したとみられる。今日では中央壇の遺体は清衡、右壇の遺体は基衡、左壇の遺体は秀衡のものとするのがほぼ定説で、これが正しいとすれば、寺伝とは左壇・右壇が逆となっている。ただし、基衡は正確な生年は不明ながら、50歳代で死亡したとみられ、上述の診断結果と合致しないことから、遺体に関しては所伝どおり左壇 = 基衡、右壇 = 秀衡とする見方もある[5]

遺体がミイラ状になって保存されていることについて、何らかの人工的保存処置によるものか、自然にミイラ化したものかは解明されていない。学術調査団の一員である長谷部言人は報告書『中尊寺と藤原四代』の中で、遺体に人工的処置が加えられた形跡はないという見解を述べている。それに対し古畑種基は人工加工説を唱えている。遺体には内臓や脳漿が全く無く腹部は湾曲状に切られ、後頭部には穴が開いていた。裂け目にはネズミの歯形が付いていたが、木棺3個とも後頭部と肛門にあたる底板に穴が開けられており、その穴の切り口は綺麗で、腐敗した内臓・体液をはじめとする汚物が流出した痕跡はなかった。男性生殖器も切除されており、加工の痕跡は歴然であるとした。「古代文明の謎と発見5 ミイラは語る」(毎日新聞出版)の中では、内臓が残っていないのをネズミに食べられたためとするなら内臓の小片(食べ残し)すら残っていないのはむしろ不自然である事、葬る際に遺体が腐敗して堂内に腐敗臭が充満する事や、等が発生して堂内に溢れる可能性を全く考慮せずにただ棺に入れて納めたら都合よくミイラになっていた、という事があるだろうかという点で、自然ミイラという説に疑問を呈している。これは、3体のミイラとも指紋には渦紋が多く、頭が丸顔でかみ合わせも日本人的で、3体とも日本人の骨格であると推定されたことから、極めてアイヌ民族に似た慣行である有力者のミイラ作りと藤原氏のミイラを関連付けるかの問題が関わっている。森嘉兵衛は、何代かの和人との婚姻で藤原氏の骨格は日本人化したが、精神や葬祭の慣行でアイヌ民族の風習が残ったのではないかとしている[6]

遺体を納めていた棺(木製金箔押)や副葬品については、調査結果から右壇が基衡、左壇が秀衡のものである可能性が高いとみられている(寺伝とは左右逆)。上記学術調査に参加した石田茂作(美術史)によると、左壇の木棺のみ、漆塗りの前に砥粉下地を施しているが、これは進んだ技法であり、3つの棺の中で最も時代が下がるとみられることから、これが3代秀衡の棺である可能性が高い。なお、遺体や棺が人目に触れたのは1950年の学術調査時が初めてではなく、江戸時代にも堂の修理時などに棺が点検された記録がある。相原友直が安永年間(1772 - 1780年)に著した『平泉雑記』によれば、元禄12年(1699年)、金色堂の修理時に棺を移動している[7]。なお、中尊寺側では遺体について「ミイラ」という呼称は用いず、一貫して「御遺体」と表現している。
中尊寺蓮

1950年の調査において泰衡の首桶から100個あまりのハスの種子が発見された。種子はハスの権威であった大賀一郎(1883 - 1965年)に託されたが発芽は成功せず、その後1995年に大賀の弟子にあたる長島時子が発芽を成功させた。泰衡没811年後、種子の発見から50年後にあたる2000年には開花に至り、中尊寺ではこのハスを「中尊寺蓮」と称し栽培している ⇒[1]
その他副葬品

棺と共に納められていた副葬品には、白装束と枕のほか、刀剣類、念珠などがあり、他に類例のない貴重な学術資料として、一括して重要文化財に指定されている。副葬品には都風のものと、鹿角製の刀装具のような地方色の現れたものがある。棺はヒバ材で、内外に金箔を押す。金箔の使用には、金色堂の建物自体に使用された金箔と同様、遺体の聖性、清浄性を保つ象徴的意味があると見なされている。中央壇の赤木柄短刀(あかぎつかたんとう)は、刀身に金銀象嵌を施したものである。刀身への象嵌は上古刀には散見されるが、平安時代には珍しい。錦などの裂類も、断片化してはいるが、染織遺品の乏しい平安時代の作品として貴重である。
仏像堂内中央壇

堂内安置の仏像について見ると、中央壇、右壇、左壇共に阿弥陀三尊像(阿弥陀如来坐像、観音菩薩立像、勢至菩薩立像)を中心に、左右に3躯ずつ計6躯の地蔵菩薩立像(六地蔵)、手前に二天像(持国天増長天)を配し、以上11躯の仏像から構成される群像を安置している。なお、ここで言う「右壇」「左壇」は本尊から見てのそれであり、拝観者からの視点では向かって左が「右壇」、向かって右が「左壇」であることは前述のとおりである。右壇の二天像のうち右方(向かって左)の増長天像は失われ、現在安置されている同像は近年の補作である[8]。また、右壇の阿弥陀如来像は金色堂本来の像でなく、後世他所から移入された像であると見なされている。したがって、金色堂本来の仏像で現存するものは計31躯である。中央壇と左壇の阿弥陀如来像は膝前で両手を組む定印(じょういん)を結ぶが、右壇の阿弥陀如来像は右手を挙げ左手を下げる来迎印で、像高も一回り小さく、金色堂本来の像でないことは明らかである。像高は中央壇阿弥陀如来像が62.5センチメートル、左壇阿弥陀如来像が66.1センチメートル、右壇阿弥陀如来像が49.0センチメートルで、その他の諸像の像高は60 - 70センチメートル台である[9]。金色堂は江戸時代にも修理が行われ、元禄17年(1704年)には江戸にて金色堂諸仏の出開帳が行われており(仙岳院文書)、こうした機会に仏像を移動した際に混乱の生じた可能性がある。また、江戸時代に阿弥陀如来像のうちの1躯が盗難に遭ったことも記録されている(平泉雑記)。須弥壇内に安置される遺体は、中央壇が藤原清衡、右壇が2代基衡、左壇が3代秀衡とするのが通説である。清衡は大治3年(1128年)没、基衡は保元2年(1157年)頃没、秀衡は文治3年(1187年)没で、約30年の間隔を置いて没している。須弥壇上の3組の仏像群も、上記3名の没年の前後に造立されたものと推定されているが、現状の仏像の配置は必ずしも平安時代のままではなく、後世に入れ替わった部分が多いと見なされている。各像はいずれも寄木造または一木割矧造で、漆箔を施し、用材はカツラ、ヒバ、ヒノキの3種がある。各像の様式、用材、木寄せ法等から、おおよその制作年代が推定されている。

上述のとおり、金色堂内の中央壇、右壇、左壇に安置された仏像群の配置は当初のままではなく、後世に一部が入れ替わっている。諸像の国宝指定(2004年)時の文化庁の解説によると、仏像群の本来の組み合わせと配置は以下のように考えられている。

中央壇の阿弥陀如来像は丸顔で典型的な定朝様(じょうちょうよう)を示し、定朝から3代目の円勢などの円派仏師の作風に通ずるところがあり、12世紀前半の制作と見なされることから、中央壇の本来の本尊と思われる。中央壇の両脇侍像も阿弥陀如来像と一具の作とみられる。一方、二天像に着目すると、中央壇の二天像は全体に細身で、腰を強く捻り、片脚と片手を高く上げ、袖を大きくひるがえすなど、激しい動きを表すつくりである。これに対して、左壇の二天像は穏やかな体勢である。右壇の二天像(1躯のみ現存)はこれらの中間的作風を示す。福島県いわき市白水阿弥陀堂の二天像(永暦元年・1160年頃の作)が金色堂中央壇像に類似することが指摘されており、様式からみれば、中央壇の二天像は12世紀半ばの作と推定される。左壇の、穏健な作風の二天像は、これより時代が上がり、中央壇の阿弥陀三尊像と一具のものと考えられる。一方、右壇の二天像(1躯のみ現存)は平安時代最末期の造像とみられる。六地蔵像については、作風や木寄せの技法などからみて、左壇の六地蔵像が中央壇の阿弥陀三尊と一具であったものとみられる。以上のことから、中央壇の阿弥陀如来像と両脇侍像、現・左壇の六地蔵像、現・左壇の二天像の11躯が本来の一具であり、金色堂上棟の1124年頃の作とみられる。これら11躯はいずれもヒノキ材の寄木造または一木割矧造(いちぼくわりはぎづくり)であり[注釈 1]、丸顔で腹部に厚みをもたせた造形で、作風や材質にも共通性がある。中央壇の阿弥陀如来像は頭体を通じ正中線で左右に2材を矧ぐ寄木造である。一方、左壇の六地蔵像のうち1躯はやはり左右2材による寄木造、残りの5躯は一木を左右に割った一木割矧造であり、このように正中線で左右に割る技法も共通している。[9][10]

残りの像についてみると、左壇の阿弥陀如来像の細面の面相は、右壇の両脇侍像のそれに通ずるところがあり、これらが本来の一具であったとみられる。また、右壇の両脇侍像の細身、腰高で頭部を小さく造るプロポーションは、中央壇六地蔵像および中央壇二天像と共通するものがある。したがって、左壇阿弥陀如来坐像、右壇両脇侍像、中央壇六地蔵像、中央壇二天像の11躯が本来の一具と推定される。これらの像はいずれもカツラ材の一木割矧造で、材質・構造の点でも共通性がある。これらは基衡が没した1157年頃の作とみられる。[9][10]

したがって、残る左壇両脇侍像、右壇二天像(2躯のうち持国天像のみ現存)、右壇六地蔵像が本来の一具となり、これらは平安時代最末期、秀衡が没した1187年頃の作ということになる。これらの像はいずれも一木割矧造であるが、用材はまちまちである。すなわち、両脇侍像はヒバと思われる材、持国天像はヒノキまたはヒバと思われる材、六地蔵はカツラ材が4躯、ヒノキ材とヒバ材が各1躯となっている。[9][10]

以上を整理すると、中央壇の阿弥陀三尊像と、左右壇の両脇侍像は本来の位置にあるが、本来右壇にあった阿弥陀如来像が左壇に移動しており、六地蔵像と二天像については、本来中央壇にあった像が左壇に、本来右壇にあった像が中央壇に、本来左壇にあった像が右壇にそれぞれ移動していることになる。なお、以上の説明は右壇を基衡壇、左壇を秀衡壇とした場合のものであり、寺伝どおり左壇を基衡壇、右壇を秀衡壇と見なした場合は説明が異なってくる。中尊寺刊行の図録『世界遺産中尊寺』の解説(浅井和春執筆)では、寺伝どおり左壇を基衡壇、右壇を秀衡壇と見なしているが、いずれの像を本来の一具とみなすかについては国宝指定時の文化庁の解説と同様である。[10]

制 作 年 代該当する像備 考
1124年頃(清衡晩年)

現・中壇 阿弥陀如来像

現・中壇 両脇侍像

現・左壇 六地蔵像

現・左壇 二天像
本来中央壇(清衡壇)に所属していた像
1157年頃(基衡没後)

現・左壇 阿弥陀如来像

現・右壇 両脇侍像

現・中壇 六地蔵像

現・中壇 二天像
本来基衡壇(通説では右壇、寺伝では左壇)に所属していた像
1187年頃(秀衡没後)

(阿弥陀如来像は現存せず)

現・左壇 両脇侍像

現・右壇 六地蔵像

現・右壇 二天像(1躯のみ現存)
本来秀衡壇(通説では左壇、寺伝では右壇)に所属していた像

堂内具金銅華鬘(迦陵頻伽文)の一つ


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