CIA日本支局を立ち上げたのは前身のOSS(戦略情報局)スイス支局でアレン・ダレスの部下だったポール・ブルームで、彼が来日後に最初に連絡をとったのが笠信太郎であり、以降ブルームと笠は日本の指導的知識人を糾合する目的の座談会を主催するなどして親米論調の涵養を図っていた。また、野村吉三郎(元海軍大将・駐米大使)に資金提供して海上警備隊(海上自衛隊の前身)を創設させ、野村の参院選出馬を支援している[28]。反ソ・反鳩山の緒方竹虎を首相にするための工作活動を展開するとともに、緒方の「日本版CIA構想」を支援していた[29]。正力松太郎を使って日本全土を縦断する一大反共軍事通信網を構築する構想があったとされる[30][31]。(→正力マイクロ波事件)
吉田則昭、山本武利、加藤哲郎らは2008年(平成20年)4月から9月、アメリカ国立公文書記録管理局で2005年(平成17年)に機密解除され2007年(平成19年)1月12日に一般公開されたCIA公開資料を収集し、1年間をかけてその分析に共同であたった。2009年(平成21年)7月25日に早稲田大学20世紀メディア研究所の第51回研究会で中間報告を行い、2009年(平成21年)7月26日の毎日新聞で1面2面の大きな記事として報道された[32][33][34][35][36][37]。日本での活動拠点にニュー山王ホテルがある。 第二次世界大戦中の1942年に情報調整局から改組設立された戦略情報局(オフィス・オブ・ストラテジック・サービス、OSS)がセントラル・インテリジェンス・グループ(CIG、中央情報グループ)及び政策調整局
歴史
第二次世界大戦終了後にアレン・ダレスはドイツからテオドール・ゼーフェッケなど多数のナチス将校を招聘した。またCIAのソ連など東欧での情報収集と工作活動の本格化を図った。「ベノナ」も参照
1950年代から1960年代にかけては、社会主義・共産主義化しつつあったイラン・グアテマラ・コンゴ・キューバなどに対してクーデター・要人暗殺などを含んだ工作活動を積極的に展開した。
1999年4月26日にCIA長官を務めた経歴を持つ第41代アメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュの功績を称えてCIAの旧本部と新本部からなる複合施設はジョージ・ブッシュ情報センター(英語版)と命名された[38]。
2001年よりジョージ・W・ブッシュ政権ではCIAは機能が発揮されていないという指摘もある。ブッシュ政権で権勢を振るうネオコンは、CIAからの情報を軽視しており(プレイム事件など)、アメリカ国防総省傘下の国家安全保障局(NSA)や国防情報局(DIA)を重視して、CIAはインテリジェンス・コミュニティーの主流派から外され、国家情報長官が設置され、副長官にはNSA長官だったマイケル・ヘイデンが就任した。