中央区_(さいたま市)
[Wikipedia|▼Menu]
区誕生前の歴史については、与野市も参照。
区名の由来

旧与野市域をほぼそのまま継承していながら、区名は「与野区」ではなく「中央区」である。区内に「与野」を含む町丁名は現存せず[注釈 1]、「与野」の地名は駅名や学校名などに残るのみとなった。

応募件数上位の名称(上位6位)[5]名称件数
1与野区1,941
2中央区1,171
3新都心区435
4彩央区267
5中央与野区88
6埼京区60

この区名は、政令指定都市への移行時に設置された他の8区と同様に、 2002年(平成14年)に4回にわたり開催された「さいたま市区名選定委員会」(委員長:井原勇与野市長)の報告文書「 ⇒さいたま市の区の名称について」をうけて決定された。この委員会では、「与野区」と「中央区」のいずれを採用すべきかについて、「与野」が歴史的な地名であること、区名公募や「区名投票」において「与野区」の区名案が第2位の「中央区」に大差をつけて1位となっていたこと、委員長の井原勇による「さいたま市誕生前の合併協議会において与野区ではなく中央区にすべきとの結論が出ていた」旨の発言に対して一部の委員が事前の裏取引ではないかとして猛反発したことなどから、議論が紛糾した[6]。報告文書では、9区の中で唯一、名指しで「与野区にすべきであるとの意見があった」との一文が加えられている。

また、委員会後には「「中央区」の区名を「与野区」に変更を求める」旨の請願がさいたま市議会に提起されたが、これも不採択となった[7]
区名の決定過程

2001年(平成13年)10月22日 - さいたま市行政区画審議会の最終答申により、さいたま市に設置される9区の区画がおおむね決定される。現中央区の仮称は「E区」[8]

2002年(平成14年)2月21日 - 第1回さいたま市区名選定委員会において、区名公募や「区名投票」の実施が了承される[9]

5月1日 - 24日 - 市内在住・在勤・在学者を対象とした区名案の公募が行われる。E区の上位3件は1位:「与野区」882件、2位:「中央区」514件、3位「新都心区」24件[10]

6月22日 - 区名検討市民の会において、E区の6つの区名案(与野区・中央区・新都心区・彩央区・埼京区・中央与野区)が選定される[11]

8月1日?16日 - 市民意向調査としての位置づけで、はがきによる「区名投票」が実施される。E区は「与野区」が1,941件と全体の48.99%と占め、「中央区」1,171件、「新都心区」435件、「彩央区」267件、「中央与野区」88件、「埼京区」60件に大差をつけての1位となった[12]

9月30日 - 第4回さいたま市区名選定委員会において、委員長の井原勇が「区名案についての委員長私案」として全9区の区名案を提示し、この中でE区について「さいたま新都心を擁し、地理的に市域の中央に位置していること」を理由に区名投票第2位の「中央区」を選定した。この際、井原は合併協議会時の経緯として「与野区ではなく中央区にすべきとの結論が出て、3市の合併が達成できた」「新都心地域は大宮区に入ることになっていたが、浦和・与野の住民は猛反発し、(中略)新都心が与野に入ると決まったときに、「与野という名前は困る」「新都心が入るんだから中央区にすべき」といろいろ論議の末、与野の行政区に属することに決まった」「立場上、今、与野区に引っ繰り返すことはできない」などと発言した。これに対して学識経験者の委員であった田代脩(埼玉大学教授)や田中信明読売新聞社さいたま支局支局長)は、「中央区ははじめから決まっていたような話ではないか」「大宮区・C区が、新都心地区をE区に組み込むことを了とする代わりに、与野区と名乗らせないといった趣旨の裏取引があったかのように聞こえる」などと猛反発した。最終的に、挙手による採決を経て井原の私案通りの「中央区」が選定された。

10月2日 - さいたま市行政区画審議会が、市長に対して審議結果を報告。

年表・沿革

1879年(明治12年) - 足立郡の区域をもって行政区画としての北足立郡が発足、北足立郡与野町となる。

1889年(明治22年)4月1日 - 北足立郡与野町・小村田村・下落合村・上落合村・中里村・大戸村、鈴谷村・上峰村・八王子村・円阿弥村が合併して与野町となる。旧与野町にあたる部分は大字与野となった(現在の本町東本町西)。

1958年(昭和33年)7月15日 - 市制施行により与野市となる。

2000年平成12年)5月5日 - さいたま新都心街びらき。

2001年(平成13年)5月1日 - 浦和市大宮市・与野市が合併してさいたま市となる。

2003年(平成15年)4月1日 - さいたま市の政令指定都市への移行に伴い、旧与野市とさいたま新都心西側地区を区域とする中央区が設置される。

2004年(平成16年)12月15日 - 本町西日本ピストンリング与野工場跡地に、イオン与野ショッピングセンター(現:イオンモール与野)が開業。

2017年(平成29年)1月1日 - さいたま赤十字病院が、区内上落合から現在地(新都心1番地5)に移転。

2018年(平成30年)4月1日 - 埼玉県推計人口において、中央区の人口が初めて10万人を突破する[13]

人口

中央区成立後から毎年4月1日の人口。微増が続いている。住民基本台帳人口より(台帳法改正前の2012年以前は台帳人口+外国人登録人口の数値)[14]

2003年(平成15年)87,921人
2004年(平成16年)89,639人
2005年(平成17年)90,562人
2006年(平成18年)91,454人
2007年(平成19年)91,586人
2008年(平成20年)93,425人
2009年(平成21年)94,560人
2010年(平成22年)95,244人
2011年(平成23年)95,673人
2012年(平成24年)95,875人
2013年(平成25年)96,473人
2014年(平成26年)97,860人
2015年(平成27年)98,609人
2016年(平成28年)99,164人
2017年(平成29年)99,711人
2018年(平成30年)100,504人
2019年(令和1年)101,351人



町名

中央区内では、多くの区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。住居表示実施前の町名等欄で下線がある町名はその全部、それ以外はその一部である。中央区役所管内(69町丁)

町名町名の読み町区域設定年月日住居表示実施年月日住居表示実施前の町名等備考
上峰一丁目うえみね2001年5月1日1981年10月1日大字上峰字陣屋・字真土
上峰二丁目2001年5月1日1981年10月1日大字上峰字相谷・字内道・字大門・字新畑、大字与野字宮前
上峰三丁目2001年5月1日1982年10月1日大字上峰字陣屋・字真土・字大門
上峰四丁目2001年5月1日1982年10月1日大字上峰字大門・字新畑・字内道
円阿弥一丁目えんなみ2001年5月1日1981年10月1日大字円阿弥字東浦、大字与野字西
円阿弥二丁目2001年5月1日1981年10月1日大字円阿弥字西浦、大字八王子字宅地
円阿弥三丁目2001年5月1日1981年10月1日大字円阿弥字東浦、大字与野字小村田
円阿弥四丁目2001年5月1日1981年10月1日大字円阿弥字西浦
円阿弥五丁目2001年5月1日1981年10月1日大字円阿弥字山王西
円阿弥六丁目2001年5月1日1981年10月1日大字円阿弥字東浦・字山王東
円阿弥七丁目2001年5月1日1982年10月1日大字円阿弥字東浦・字山王東、大字与野字小村田
大戸一丁目おおと2001年5月1日1980年3月1日大字大戸字南・字高沼・字本村
大戸二丁目2001年5月1日1980年3月1日大字大戸字高沼・字西谷
大戸三丁目2001年5月1日1980年3月1日大字大戸字西谷・字本村
大戸四丁目2001年5月1日1980年3月1日大字大戸字新田・字曲庭・字本村
大戸五丁目2001年5月1日1980年3月1日大字大戸字新田・字曲庭・字上大寺・字亀在家・字西谷
大戸六丁目2001年5月1日1980年3月1日大字大戸字上大寺・字亀在家・字西谷・字高沼
大字上落合かみおちあい2001年5月1日未実施
上落合一丁目かみおちあい2001年5月1日1997年2月17日大字上落合
上落合二丁目2001年5月1日1992年2月1日大字上落合
1997年2月17日大字上落合
上落合三丁目2001年5月1日1997年2月17日大字上落合
上落合四丁目2001年5月1日1997年2月17日大字上落合
上落合五丁目2001年5月1日1997年2月17日大字上落合


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:70 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef