中央党_(ドイツ)
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しかしカトリック以上に厄介な社会主義勢力の台頭により1870年代末からビスマルクはカトリックとの和解を図るようになり、弾圧を緩めた。結果、政府とカトリックの激しい敵対関係が終息に向かい、中央党の結束力も緩み、1880年代半ばから得票をだいぶ落とした[19]

1887年には教皇とビスマルクの間で和解が成立した。中央党は文化闘争以前の状態に戻すことを求めていたが、教皇はドイツ政府がカトリック聖職者の育成と任命に介入するという5月法の撤廃だけを求め、これに応じたビスマルクと教皇の間に和解が成立したのだった[18]。和解方法を巡って中央党と教皇の間に対立が生じたことからも分かるように中央党は完全なカトリック教会の従属政党というわけではなかった[12]。これは中央党が地域の教会を中心とするカトリック社会のネットワークを基盤とし、中央党指導部は教会とは一応別個の議会戦略を立てることができたことによる[20]

カトリックと同じくドイツ帝国で「少数派」にあたるのが自由主義勢力や社会主義勢力であったが、中央党はこれらの勢力とも関係が悪かった。自由主義者や社会主義者は宗教を公的生活からは切り離して、私的生活に押し込もうとしていたが、中央党はこれに激しく反発していた[12]。こうした人々から中央党は、聖母マリア無垢受胎信仰、誤謬表教皇不可謬説といった「非合理性」「退歩性」の象徴と看做されていた[19]
体制側政党へ

中央党の党内機構は「助任司祭制(カプラノクラティー)」と称する寡頭制が取られており、党内民主主義はほとんど存在しないに等しかった[21]。したがって中央党はドイツを民主化させるために闘うこともしなかったので、政府とカトリックの対立が終焉に向かうと自然と中央党と保守勢力は密接な関係を持つようになった[22]

1880年代から90年代前半にかけて中央党では同党の支持層である中間層や農民の声を反映して党指導部の交代が行われ、カトリック貴族聖職者に代わってブルジョワが中央党議員団の中心となっていった[23]。ブルジョワが中心となったことで中央党は利益政党の性格を強め、反対政党から体制側の政党へと変化していく[24]。利益政党になるに従ってカトリック政党である必要性が薄くなり、中央党内では脱宗教論争も起こるようになった[25]マティアス・エルツベルガー

しかし産業化の進展とともに中央党内でも労働組合勢力が台頭し、中央党の農村保守的な要素は減退していき、マティアス・エルツベルガー左派政治家の発言力が大きくなっていった[20]。彼らは政府への過度の接近に反対し、政府の植民地政策に反対し、ドイツ社会民主党(SPD)とも良好な関係を持っていた[24]。中央党指導部もこうした声を抑えきれなくなり、1907年にはベルンハルト・フォン・ビューロー宰相率いる政府との関係を絶った[24]。続く宰相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク時代には保守党とともに「黒青ブロック」という与党連合を形成したが、1912年の選挙で社民党に大敗を喫した。
第一次世界大戦

第一次世界大戦において社民党は「和解の平和」を主張していた。中央党ははじめ保守勢力の主張した「勝利の平和」を支持していた。しかし戦況の悪化で徐々に「勝利の平和」論から離れ、1916年7月初めの帝国議会ではエルツベルガーは海軍批判を行った[26]

1916年末から1917年初頭の冬にドイツは物質的窮乏と食料不足に苦しんだ。そのためこれ以降、飢えに苦しむ労働者階級を中心に抗議活動があちこちで多発するようになった。ドイツ国内の危機的状況は、議会主流派の動きも刺激した[27]。エルツベルガーの主導の下、中央党も「和解の平和」の考えに乗るようになり、1917年7月19日には社民党と中央党と進歩人民党の三党で強制的合併を伴わない和平案「平和決議(ドイツ語版)」を帝国議会で採択させた。ただ当初目指された無賠償無併合の原則は国民自由党などブルジョワ政党の反発が根強かったために盛り込まれなかった。また宰相ゲオルク・ミヒャエリスが「私の解釈する」決議の趣旨に努力するという限定を付けたため、その影響力はほとんど無かった[28]

1918年10月3日には連合国との講和準備内閣として連合国から自由主義者として評判が高かったマクシミリアン・フォン・バーデンを首相とするバーデン内閣が誕生。同内閣の閣僚は社民党・中央党・進歩人民党の三党で構成されており、社民党と中央党で議会の過半数を超えるため、この内閣はドイツ史上最初の政党内閣だったと評価されている[29]。バーデン内閣下の10月22日から26日の帝国議会で政治的民主化に関する議論が行われ[30]、その議論の中で中央党はエルツベルガーの強力な指導によって議会政治導入に中心的役割を果たすこととなった[20]

11月6日、アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領が「十四か条の平和原則」に基づく講和に応じる用意があると表明するとヴィルヘルム・グレーナー参謀次長の推薦によりバーデンによって中央党のエルツベルガーが講和条約締結のドイツ政府の代表に指名された[31]

11月9日には社民党のフリードリヒ・エーベルトが宰相となり、皇帝ヴィルヘルム2世が退位。11月10日には社民党と独立社会民主党が3人ずつ委員を出し合う仮政府「人民代表委員会」が設置され、中央党は政権から除かれ二次的に役割を果たすにすぎなくなったが[32]、11月11日にパリのコンピエーニュの森で行われた休戦協定にドイツ代表で参加したのはエルツベルガーだった[33]
ヴァイマル共和政1930年の国会選挙で宣伝活動する中央党の運動員

中央党は戦時中の1918年6月30日の綱領においては「強力な君主制の堅持」を掲げており、共和主義政党ではなかった。しかしドイツ革命により状況は変化した。共産主義者による教会攻撃が激化し、キリスト教やカトリックの宗教的信条、教会の権利が危機に晒された。中央党は革命やプロレタリア独裁を阻止するためには国民議会を招集し、そこに足場を確保しなければならないとの認識を強めるようになり、とりわけエルツベルガーは、レーテ独裁(=国民議会招集否定)を狙う独立社民党に対抗するために社民党に協力して国民議会招集を要求した。エルツベルガーの親社民党行動は「革命との盟約」「社会主義の深淵への転落」「中央党がそれまで立っていた諸原則の否定」という批判もあったが、国家秩序救済のためには社民党との連携は避けられないというのがカトリックの責任ある指導者の考えだった[34]

1918年12月24日に独立社会民主党が仮政府「人民委員会」から下野すると、社民党政権とエルツベルガーの連携は深まり、国民議会招集決定にこぎつけた。同年12月30日にフランクフルトに召集された中央党全国委員会では「新秩序は所与の事実の上に作り上げられるべきである。この秩序は君主制の崩壊後、社会主義共和国ではなく民主的共和国とならなければならない」との方針が決議されている[35]1919年2月13日の国民議会での政綱演説においても中央党議員団代表アドルフ・グレーバー(ドイツ語版)は「我々の意見では、いかなる公権でも、それが君主主義的であろうと共和主義的であろうと、すべて神の御加護によるものである」と論じている。


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