最多人口国であるドイツをはじめ、ドイツ語を多数の国民が母語とする国(オーストリア、スイス、リヒテンシュタイン)が4つを占め、他の国も神聖ローマ帝国・オーストリア帝国・ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国といったドイツ人国家からの支配を長く受けた歴史を持つ。スイスを含めない分類や、スロバキア・ハンガリーを含めない分類などもある。
その他、フランスのアルザス=ロレーヌ、ルクセンブルク、イタリアの南チロル、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアのヴォイヴォディナ、モンテネグロのコトル湾、ルーマニアのトランシルヴァニア、ウクライナ西端部、バルト諸国、ロシアのカリーニングラード州を含むこともある。
アルプス諸国とヴィシェグラード・グループアルプス諸国とヴィシェグラード・グループの位置
ドイツ、オーストリア、スイス、リヒテンシュタイン、スロベニアの5か国はアルプス諸国とも呼ばれる。しかし、アルプス山脈に近接するという地理的要素以外にこの5カ国のまとまりを規定する要素は特にない(歴史的にはいずれも神聖ローマ帝国の流れだが、同様の条件を持つ国が他にいくつもある)上に、同様の条件を持つイタリアとフランスを欠いている。また、スロベニアを除いた4か国にはドイツ語を主要言語とする民族的共通性があるが、やはりこの条件で共通するルクセンブルクを欠いている。
他方で、アルプス諸国より東に位置するポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリーの4カ国はヴィシェグラード・グループ (V4) という地域協力機構を作っており、特に外交・経済政策においてこの4カ国は関係を緊密化する方向で動いている。 ヨーロッパの中心がローマであった古代からルネサンスの時代にかけては、現在中央ヨーロッパと呼ばれる地域は"ローマから見て"「北方」に位置していたため「北方地域」と呼ばれていた。当時「北欧」は現在の中央ヨーロッパから北を指した。 中欧のカトリック化はラテン語圏(具体的には神聖ローマ帝国)を通して行われたため、西欧との一体性が強かった。また近世には、オーストリアのハプスブルク王朝の支配下に置かれ特にドイツ語圏の影響が強くみられる。ウィーンは地理的にはハンガリー、チェコ、スロバキアからも中心に位置し、ハプスブルク王朝の領土そのものを指して中欧でありウィーンは中欧の首都の機能をもっていた。なお、比較的早く神聖ローマ帝国を離脱したルクセンブルクや、さらに早く分離したため言語・民族ともドイツとは別個に考えられるようになったオランダなどは、まず中欧に含まれることがなく、ウィーンを軸とするドイツ系民族の広がりと中欧はイコールではない。また、オーストリアを中心として統一ドイツ民族国家を目指す大ドイツ主義と、同国を排除してプロイセン中心の統一を目指す小ドイツ主義が対立した19世紀には、ハプスブルク宮廷は後者はもちろん、広大な非ドイツ人地域を手放すことを前提とした前者も到底許容できるものではないため、大ドイツ主義に非ドイツ人をも含めた多民族国家としての第三の道「中欧帝国構想」を盛んに喧伝した。しかしこれは、形骸化し崩壊した神聖ローマ帝国と内容に大差がないうえに、高まるドイツ民族主義の器としては疑問視されてドイツ人の支持を受けられず、中欧におけるドイツ人支配を固定しかねないとして他民族の反発も強く、大きな世論の潮流とはならなかった。
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