中央アフリカ共和国(ちゅうおうアフリカきょうわこく、フランス語: Republique centrafricaine、サンゴ語: Kodorosese ti Beafrika)、通称中央アフリカは、アフリカ中央部にある国家である。北東はスーダン、東は南スーダン、南はコンゴ民主共和国、南西はコンゴ共和国、西はカメルーン、北はチャドと国境を接する内陸国。首都はバンギである。
人口は492万人ほどで、独立以来クーデターが多発しており政情は常に不安定の状態である。その影響から経済は低迷し続けており、後発開発途上国あるいは失敗国家のひとつに数えられる。
2013年、反政府軍の侵攻によって当時のボジゼ政権が崩壊して以降、中央政府の支配は微弱なものにとどまっており、各地に割拠した武装勢力の抗争が続いているため、治安の悪化も深刻となっている。 正式名称はフランス語でRepublique centrafricaine(レピュブリク・サントラフリケーヌ)。通称Centrafrique(サントラフリク)。 英語ではCentral African Republic、略称はCAR。日本語の表記は中央アフリカ共和国。通称中央アフリカ。植民地時代の名称はウバンギ・シャリ (Oubangui-Cha-ri)。
国名
歴史詳細は「中央アフリカ共和国の歴史(フランス語版
19世紀まで中世におけるアフリカの主要奴隷貿易路
17世紀以降、チャド湖周辺地域に割拠するカネム・ボルヌ帝国やバギルミ王国(英語版)、その東に広がるワダイ王国やダルフール王国といった諸国は、アラブ人の奴隷貿易におけるサブサハラ地域の主要な奴隷供給地であったウバンギ川流域への侵攻を繰り返した。一方、19世紀にはこれら諸国の隣接地域から、戦闘や奴隷狩りを逃れるためウバンギ川流域への人口流入がおこり、北からはバンダ人(英語版)が、西からはフラニ戦争を逃れたバヤ人が移住して来た。また、南東部にはアザンデ人が移住してきた。 1885年のベルリン会議でアフリカ大陸内陸部の分割が本格化する中、1887年にフランスはベルギー王レオポルド2世と協定を結び、ウバンギ川右岸を自国領域と認めさせた。さらにフランスは1889年に前哨基地(現バンギ)を建設し、1894年、この地域はフランス領ウバンギ・シャリとなった。1910年にはウバンギ・シャリはフランス領コンゴ、フランス領ガボンとともにフランス領赤道アフリカを構成するようになった[4]。1946年にはフランス本国議会への代表選出権を獲得し、1958年にはフランス第五共和国憲法国民投票に賛成、フランス共同体内の自治共和国となり国名を中央アフリカ共和国と改称した。自治共和国首相のバルテレミー・ボガンダは内相のダヴィド・ダッコや蔵相のアベル・グンバらを登用し国作りを進めたが1959年に飛行機事故で死亡し、ボガンダの後任にはダッコが就いた[5]。 1960年8月にフランスから独立し、ダッコはそのまま中央アフリカの初代大統領に就任した。ダッコ政権は就任後すぐに独裁化し、グンバなどの野党政治家を弾圧、1961年には一党制を敷いた[5]。 1965年12月、ダッコ大統領のいとこで当時国軍の参謀総長だったジャン=ベデル・ボカサ中佐による軍事クーデターが起こり、ダッコ政権が転覆。1966年1月、ボカサ中佐が大統領に就任し独裁政治を始めた。ボカサは独裁を強めていき、1972年には終身大統領を宣言、1976年12月には皇帝に即位して、中央アフリカ帝国初代皇帝ボカサ一世を称した。即位1年後の1977年12月4日、ボカサ皇帝は約65億円(2000万ドル)[6]という国家予算の1/4に相当する国費をつぎ込み、贅を尽くしたフランス風の戴冠式 1979年9月、ボカサ皇帝の外遊中にフランスが軍事介入を行い、前大統領ダッコを復帰させてボカサを追放し、共和制を復活した[9]。復帰したダッコは新憲法の制定や複数政党制の導入などを行い、1981年3月の選挙ではダッコがアンジュ・フェリクス・パタセらに辛勝して大統領に就任した。しかし対立候補支持派による反政府デモが頻発してすぐに非常事態宣言が出され、ダッコ政権は再び独裁を強めていった[10]。 こうした中、1981年9月1日、アンドレ・コリンバ国軍参謀総長によるクーデターが発生し、ダッコ大統領はカメルーンに亡命した。コリンバは憲法と議会を停止し軍事政権を樹立して、1982年と1983年の2度のクーデター未遂をくぐり抜け、1986年には一党制を敷くとともに民政移管を行った。しかしアフリカ諸国の民主化の中で、中央アフリカでも民主化デモが盛んに行われるようになり、1991年にコリンバは複数政党制を導入した[7]。しかしこの時期には財政難によって軍の給与が滞るようになり、1993年5月には給与支払いを求め一時反乱を起こした[11]。 1993年9月の選挙でコリンバは落選し、アンジュ・フェリクス・パタセが大統領に就任した。しかし財政難と給与未払いは解消しなかったため軍は不満を強めていき、1996年以降軍は繰り返し反乱を起こすようになった。国内の混乱は収まらず騒乱状態となり、1998年には国際連合中央アフリカ共和国ミッション(MINURCAT)による多国籍軍の駐留が行われた[12]。1999年の大統領選挙で、パタセは再選された。 2003年、チャドのイドリス・デビ大統領の支援を受けたフランソワ・ボジゼがパタセ大統領が国外にいる間に権力の掌握に成功して大統領に就任した。2004年には北東部で反乱軍が蜂起し、中央アフリカ共和国内戦
植民地化
独立・ダッコ政権
クーデター・ボカサ政権ジャン=ベデル・ボカサ。
クーデター・ダッコ政権
クーデター・コリンバ政権
パタセ政権
クーデター・ボジゼ政権詳細は「中央アフリカ共和国内戦 (2004年-2007年)(英語版
クーデター・セレカ政権詳細は「中央アフリカ共和国内戦 (2012年-現在)」を参照