中央アフリカ
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即位1年後の1977年12月4日、ボカサ皇帝は約65億円(2000万ドル)[6]という国家予算の1/4に相当する国費をつぎ込み、贅を尽くしたフランス風の戴冠式(英語版)を行った[7]。しかし国内では1979年1月には学生の反対デモに対し軍が発砲、多数の死傷者を出すなど、ボカサの暴政に対する批判の声が高まる一方となっていた[8]
クーデター・ダッコ政権

1979年9月、ボカサ皇帝の外遊中にフランスが軍事介入を行い、前大統領ダッコを復帰させてボカサを追放し、共和制を復活した[9]。復帰したダッコは新憲法の制定や複数政党制の導入などを行い、1981年3月の選挙ではダッコがアンジュ・フェリクス・パタセらに辛勝して大統領に就任した。しかし対立候補支持派による反政府デモが頻発してすぐに非常事態宣言が出され、ダッコ政権は再び独裁を強めていった[10]
クーデター・コリンバ政権

こうした中、1981年9月1日、アンドレ・コリンバ国軍参謀総長によるクーデターが発生し、ダッコ大統領はカメルーンに亡命した。コリンバは憲法と議会を停止し軍事政権を樹立して、1982年と1983年の2度のクーデター未遂をくぐり抜け、1986年には一党制を敷くとともに民政移管を行った。しかしアフリカ諸国の民主化の中で、中央アフリカでも民主化デモが盛んに行われるようになり、1991年にコリンバは複数政党制を導入した[7]。しかしこの時期には財政難によって軍の給与が滞るようになり、1993年5月には給与支払いを求め一時反乱を起こした[11]
パタセ政権

1993年9月の選挙でコリンバは落選し、アンジュ・フェリクス・パタセが大統領に就任した。しかし財政難と給与未払いは解消しなかったため軍は不満を強めていき、1996年以降軍は繰り返し反乱を起こすようになった。国内の混乱は収まらず騒乱状態となり、1998年には国際連合中央アフリカ共和国ミッション(MINURCAT)による多国籍軍の駐留が行われた[12]。1999年の大統領選挙で、パタセは再選された。
クーデター・ボジゼ政権詳細は「中央アフリカ共和国内戦 (2004年-2007年)(英語版)」を参照

2003年、チャドのイドリス・デビ大統領の支援を受けたフランソワ・ボジゼがパタセ大統領が国外にいる間に権力の掌握に成功して大統領に就任した。2004年には北東部で反乱軍が蜂起し、中央アフリカ共和国内戦(英語版)が2007年まで継続したが、一方でボジゼは2005年と2011年の選挙で再選された。
クーデター・セレカ政権詳細は「中央アフリカ共和国内戦 (2012年-現在)」を参照

2012年12月、反政府武装勢力CPSK-CPJP-UFDRの連合体であるセレカが北部および東部の広域を掌握していった[13]。翌年3月には、1月の和平合意を履行しなかったとしてボジゼ政権への攻撃を再開し、24日首都のバンギを制圧した[14]。ボジゼ大統領は隣国コンゴ民主共和国へと脱出し中央アフリカの旧宗主国であるフランスはバンギ空港を確保した。

セレカの主導者ミシェル・ジョトディアが自ら暫定大統領に就任して軍事政権を樹立し、3年後の選挙までニコラ・チャンガイ(英語版)首相が政権を担うことになった。だが、アフリカ連合はセレカによる首都制圧を非難、加盟国に対し「結束した断固たる行動」を求めた。4月、ジョトディアはアフリカ連合の要求を受け入れ、暫定評議会を設置。ほかに候補者がいないなかで、暫定評議会から大統領に選出された。8月、宣誓式が行われ正式にジョトディアが大統領に就任した[15]。ジョトディア大統領は、中央アフリカの歴史上初めてのイスラム教徒の大統領であった。
無政府期

2013年9月にはジョトディア大統領によりセレカの解散が行われたが、単に非合法化されただけで武装組織そのものは温存された。セレカやジョトディア政権に統治能力はなきに等しく、一般市民への弾圧や新たに登場したキリスト教系武装組織、アンチ・バラカ(英語版)などとの抗争は続き、次第に国内は無政府状態に近い状況に陥った。首都のバンギでも、イスラム教とキリスト教の対立が激化していった。数百人規模の死者が出る状態となったため、2013年12月5日には国際連合PKOである中央アフリカ支援国際ミッションの派遣が可決され、旧宗主国のフランスやアフリカ連合の治安維持を目的とした派遣軍の軍事介入を受けた[16]。2014年1月10日、混乱を収拾するためにジョトディア大統領とチャンガイ首相が辞任した[17]。2014年2月には、評議会内の選挙によりカトリーヌ・サンバ=パンザが大統領に選出され、キリスト教徒の立場から国内融和に乗り出した[18]

2014年2月、国際刑事裁判所 (ICC) の検察官が政治的な混乱の中で行われた人道に対する罪の予備調査を開始、同年4月10日、国連安全保障理事会は中央アフリカにおいて、国外から派遣軍を倍増させる11,800人規模の平和維持活動部隊 (PKO) を発足させる決議案を全会一致で採択。フランス軍に事実上の指揮権を与えた[19]
トゥアデラ政権と内戦の継続

2014年7月にはセレカとアンチ・バラカ(英語版)が停戦合意し、2015年5月に国民和解フォーラムが開かれ少年兵350人が解放された[20]。2015年12月から2016年3月にかけ大統領選挙、議会選挙、憲法草案の国民投票が行われ、フォースタン=アルシャンジュ・トゥアデラ大統領が就任し民政復帰が完了する[21]。セレカは自らの本拠である北部や東部へと撤退したのちいくつかの勢力に分裂し、西部を拠点とし中部に進出したアンチバラカとの間で国土は二分されるようになった[22]

2017年からはAU主導の調停メカニズム「アフリカ・イニシアティブ」が設置されたものの[21]、国内各武装勢力は軍事衝突や市民への暴行を繰り返し、同年5月だけで数百人の死亡が確認された[23]。さらに同年6月には中部で武力衝突が起き[24]、8月には全土に拡大[25]。2018年2月にも北西部で激しい戦闘が起きた[26]。4月には国連軍と武装勢力が首都バンギで衝突する[27]など混乱は全く終息せず、5月には人口450万人のうち国外難民が57万人、国内難民が67万人に達し、全人口の4分の1が難民となっていた[28]。2019年2月には政府と14の武装勢力で和平合意の署名が完了したものの[21]国内情勢はなおも混乱しており、12月25日から26日にかけては武装勢力と地元商人が首都バンギで衝突し多数の死者を出した[29]

2020年12月、反政府勢力である変革のための愛国者同盟(CPC)は、同年12月27日に行われる大統領選と議会選を前に一時的な停戦を発表したが、選挙直前の12月25日に突然撤回。首都を掌握するという最終目標に向けて進軍を再開すると発表した[30]

2021年1月13日には反政府勢力が首都を攻撃したが、国際連合中央アフリカ多次元統合安定化派遣団(MINUSCA)の部隊が反撃、撃退した。同年1月18日、憲法裁判所はトゥアデラ大統領の再選を発表したが、治安の悪さなどから大統領選に投票したのは有権者3人に1人にとどまった[31]
政治
2013年3月まで詳細は「中央アフリカ共和国の政治(フランス語版、英語版)」を参照

中央アフリカは共和制大統領制をとる立憲国家である。民政復帰前の憲法2004年12月5日に制定され、同月27日より施行されたもの。「中央アフリカ共和国の憲法(フランス語版)」も参照

国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出され任期は5年。3選は禁止されている。首相は総選挙の結果に基づき、国民議会が選出する。内閣に相当するものとして閣僚評議会が設置されている。

議会は一院制で、正式名称は国民議会


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