中国
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なお、中華人民共和国憲法では漢民族を含む全ての民族を「中華民族」と規定している[32]
「中国」の呼称の変遷

本節では、他地域からの呼称の変遷について記載する。これらの呼称は、地理的な意味合いだけではなく、中華王朝・政権の名を越えた通史的な呼称としても利用された。「en:Names of China」も参照
「セリカ」詳細は「セリカ」を参照

ヘレニズム文明の時代、ギリシアからみて北西がヨーロッパ、南東がアジア、南西がアフリカ、北東がスキティアと呼ばれたが、このアジアのさらに東(インダス川の東)にインディアがあり、インディアとスキティアのさらに東が「セリカ」とされていた。これは(絲)を意味する「セーリコン」(σηρικον)に由来し、いわゆる中国の地をさしていた。絹をもたらした中国の商人は「セール」(σηρ)(複数形:「セーレス」(σηρεσ, Seres))と呼ばれ、「セーリコン」は英語ロシア語などで「絹」を表す言葉の語源ともなっている。その後、「セリカ」は後述する「チーナ」に由来する「スィーン」が伝わるとその系統の呼称に取って代わられた。
「秦」に由来する呼称

漢字文化圏以外からは、古くはに由来すると考えられるチーナ、シーナという呼称が一般的に用いられ、古代インドではチーナスタンとも呼んだ。これが仏典において漢訳され、「秦」「支那」「震旦」「真丹」などの漢字をあてられる[33]。この系統の呼称はインドを通じて中東に伝わってアラビア語などの中東の言語では.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}Sīn(スィーン)となる。また、更に後にはインドの言葉から直接ヨーロッパの言葉に取り入れられ、China(チャイナ)(英語)、Chine(シーヌ)(フランス語)などの呼称に変化した。日本でも「秦」に由来して、「支那」が仏教文献では古くから利用されてきた。「支那」は明治時代に入ると、欧米の Sinology の訳語として取り入れられ、中華王朝・政権の名を越えた通史的な呼称として昭和の中期まで利用された。
「漢」に由来する呼称

最初の統一王朝ながら短命に終わった秦王朝に代わって400年間に渡って中国を支配した漢王朝前漢後漢)の時代に、漢民族を中心とする中国の版図は定着していった。そのため、「漢民族」や「漢字」のような言葉に漢の字が使われている。また、日本では「から」の音を「漢」の字にあてる例もある。
「拓跋」に由来する呼称

7世紀末から8世紀初頭の突厥(第二突厥帝国)の人々が残した古テュルク文字の碑文において中国の人々を指して使われている呼称に「タブガチュ(タブガチ、Tabgach、Tabγa?)」があり、北中国に北魏を建てた鮮卑拓跋部拓跋氏に由来すると考えられている(白鳥庫吉ポール・ペリオらの説。桑原隲蔵は唐家子に由来するとの説、つまり唐由来説を唱えた)。

タブガチュの系統の呼称は、1069年クタドゥグ・ビリグにおけるタフカチやTamghaj、Tomghaj、Toughajなど突厥以後も中央アジアで広く使われた。1220年 - 1224年に西方を旅した丘長春(長春真人)は「桃花石」と記録している。11世紀 - 12世紀カラハン朝 (Qarakhanid dynasty) においては数人の可汗がTabghach (Tavghach) という名である。しかしモンゴル帝国の時代前後に後述するキタイに取って代わられた。

なお、古テュルク文字碑文以前、東ローマ帝国の歴史家テオフィラクトス・シモカッタの7世紀前半に書かれたとみられる突厥による柔然滅亡(552年)関連の記事にタウガス (Taugas) との記載があり、これも同系統の呼称と思われる。記事が書かれた時期は末 - 唐初期と思われ、柔然の滅亡は西魏から北周東魏から北斉への禅譲と同時期となる。
「唐」に由来する呼称

江戸時代以前の日本の人々は、しばしば遣唐使を通じて長く交渉を持った唐の国号をもって中国を呼んだ。日本の古語では、外国を意味する「から」の音を「唐」の字にあてる例も多い。中国を「唐土(もろこし)」と呼称したり、日本に来航する中国商人は「唐人(からびと、とうじん)」と呼ばれ、文語の中国語を「漢文」というのに対して口語の中国語は「唐語(からことば)」と呼ばれた。また、かつて東南アジア台湾含む)などの華人も祖国を「唐山」と呼んだ。
「契丹」に由来する呼称

11世紀頃に中国の北辺を支配したキタイ(契丹)人の王朝から、12世紀から13世紀の、モンゴル高原のモンゴル人は、中国をキタイと呼び、モンゴル帝国による征服活動の結果として、内陸ユーラシアのテュルク語東スラヴ語などでは、中国のことをキタイに基づく呼称で呼ぶようになった。13世紀後半に、元朝統治下の中国をマルコ・ポーロは、北中国のことをカタイという名で記録した。ロシアウクライナブルガリアカザフスタンでは現在も中国のことを Китай (Kitaj) 、ウズベキスタンではXitoyと呼んでいる。西ヨーロッパにはCathayとして伝わり、キャセイパシフィック航空の社名などに使われているが、Chinaに比べるとあまり広汎に用いられる呼称ではない。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 例えば軍人勅諭には、「昔神武天皇自ら大伴物部の兵どもを率ゐ、中国のまつろはぬものどもを討ち平らげ給ひ…」とある。
^ 西域都護の領域が「中国」と認識されていたかどうかについては別途出典を要する
^ そもそも中国大陸には近代まで「国家」という概念はなく、皇帝は中華思想のもと自らを地上で唯一の天子だと考えた。そして、各時代において民衆は、その圧制から逃れるために万里の長城を越えて周辺地域に移り住み、それを中央が再度取り込み膨張していったのが中国(概念)であり、その過程において近代になって注目され始めたのがチベットやウイグル、モンゴルなどで見られる民族宗教の問題である。

出典^ 外務省:中華人民共和国
^中国 - Yahoo!ニュース Archived 2014年6月15日, at the Wayback Machine.
^地球の歩き方 > 中国の概要[リンク切れ]
^ a b 佐川, 英治、杉山, 清彦『中国と東部ユーラシアの歴史』NHK出版、2020年2月1日、14-15頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 4595321899。 
^ 漢書西域伝卷4「及秦始皇攘卻戎狄,築長城界中國」
^ 漢書溝恤志卷29
^ 『塩鉄論』「五二功業について」p250で南越王国の征服のくだりで、「南越は中国に従った」と記載がある


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