歴史学においては清を中国とするかについても議論がある。新清史は1990年代半ばに始まる歴史学的傾向であり、清王朝の満洲人王朝としての性質を強調している。以前の歴史観では中国(中華人民共和国)の歴史家を中心に漢人の力を強調し、清は中華王朝として満洲人と漢人が同化したこと、つまり「漢化」が大きな役割を果たしたとされていた。しかし1980年代から1990年代初頭にかけて、日本やアメリカの学者たちは満洲語やモンゴル語、チベット語やロシア語等の漢字文献以外の文献と実地研究を重視し、満洲人は満洲語や伝統である騎射を保ち、それぞれの地域で異なった体制で統治していたため長期的支配が行えたとし、中華王朝よりも中央ユーラシア的な体制を強調している。満洲人の母語はアルタイ系言語である満洲語であったこと、広大な領域を有した領土の4分の3が非漢字圏であったことなど「清朝は秦・漢以来の中国王朝の伝統を引き継ぐ最後の中華王朝である」という一般に流布している視点は正確ではないとしており、[28]中華王朝という意味の中国はあくまで清の一部であり清は中国ではないとしている。
中国国内では「新清史」の学術的成果は認められつつあるものの、「漢化」を否定する主張については反対が根強くある。2016年においても劉文鵬が「内陸亜洲視野下的“新清史”研究」で「『新清史』は内陸アジアという地理的、文化的概念を政治的概念に置き換えたことにより中国の多民族的国家の正統性を批判している」としていることからも、現在の中国においては新清史の学術的価値は認められつつも、その主張には依然として反対する流れに変化は無いようである[29]。(New Qing Historyも参照)
辛亥革命では、「中華民国」と呼称されていたが[30]、共和勢力による政権獲得が現実のものとなっていくのに伴い、支那の独立という理想論は影を潜め、清朝が1912年の段階まで連合していた「支那・満洲・モンゴル・チベット・東トルキスタン」の範囲をそのまま枠組みとする「中国」で、近代的な国民国家の形成が目指されることとなった。しかし、そのような議論はモンゴルやチベット、東トルキスタンの人々の意思とは無関係に決められており[20]、実際には漢民族との連携を重視し始めた清朝に対する反発と諸外国の影響を受けて支那地域以外では自立の動きがみられ、これらの地域の再統合は中華人民共和国の成立後に持ち越される事になる。
「中国」「中華」は中華民国および中華人民共和国において、それぞれの国号となった。「中国」「中華」という用語が持っていた「漢民族のアイデンティティ」という要素は、「多民族の仲直りと統一」という要素として再構成され、多民族の構成員が主体となって建設した「中国文化の優越性」だけが共通分母として落ち着くようになった。そしてその持ち主という意味の「華人」「華僑」という呼称も生まれた。
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2015年11月)
今日の中国では、漢民族以外の数多くの少数民族が居住しており、その数は中華人民共和国政府が公式に認定しているものだけでも55を数える[31]。なお、中華人民共和国憲法では漢民族を含む全ての民族を「中華民族」と規定している[32]。 本節では、他地域からの呼称の変遷について記載する。これらの呼称は、地理的な意味合いだけではなく、中華王朝・政権の名を越えた通史的な呼称としても利用された。「en:Names of China
「中国」の呼称の変遷
「セリカ」詳細は「セリカ」を参照
ヘレニズム文明の時代、ギリシアからみて北西がヨーロッパ、南東がアジア、南西がアフリカ、北東がスキティアと呼ばれたが、このアジアのさらに東(インダス川の東)にインディアがあり、インディアとスキティアのさらに東が「セリカ」とされていた。これは絹(絲)を意味する「セーリコン」(σηρικον)に由来し、いわゆる中国の地をさしていた。絹をもたらした中国の商人は「セール」(σηρ)(複数形:「セーレス」(σηρεσ, Seres))と呼ばれ、「セーリコン」は英語やロシア語などで「絹」を表す言葉の語源ともなっている。その後、「セリカ」は後述する「チーナ」に由来する「スィーン」が伝わるとその系統の呼称に取って代わられた。 漢字文化圏以外からは、古くは秦に由来すると考えられるチーナ、シーナという呼称が一般的に用いられ、古代インドではチーナスタンとも呼んだ。これが仏典において漢訳され、「秦」「支那」「震旦」「真丹」などの漢字をあてられる[33]。この系統の呼称はインドを通じて中東に伝わってアラビア語などの中東の言語では.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}Sīn(スィーン)となる。また、更に後にはインドの言葉から直接ヨーロッパの言葉に取り入れられ、China(チャイナ)(英語)、Chine(シーヌ)(フランス語)などの呼称に変化した。日本でも「秦」に由来して、「支那」が仏教文献では古くから利用されてきた。「支那」は明治時代に入ると、欧米の Sinology の訳語として取り入れられ、中華王朝・政権の名を越えた通史的な呼称として昭和の中期まで利用された。 最初の統一王朝ながら短命に終わった秦王朝に代わって400年間に渡って中国を支配した漢王朝(前漢と後漢)の時代に、漢民族を中心とする中国の版図は定着していった。そのため、「漢民族」や「漢字」のような言葉に漢の字が使われている。また、日本では「から」の音を「漢」の字にあてる例もある。 7世紀末から8世紀初頭の突厥(第二突厥帝国)の人々が残した古テュルク文字の碑文において中国の人々を指して使われている呼称に「タブガチュ(タブガチ、Tabgach、Tabγa?)」があり、北中国に北魏を建てた鮮卑の拓跋部、拓跋氏に由来すると考えられている(白鳥庫吉やポール・ペリオらの説。桑原隲蔵は唐家子に由来するとの説、つまり唐由来説を唱えた)。 タブガチュの系統の呼称は、1069年のクタドゥグ・ビリグにおけるタフカチやTamghaj、Tomghaj、Toughajなど突厥以後も中央アジアで広く使われた。1220年 - 1224年に西方を旅した丘長春(長春真人)は「桃花石」と記録している。11世紀 - 12世紀のカラハン朝 (Qarakhanid dynasty なお、古テュルク文字碑文以前、東ローマ帝国の歴史家テオフィラクトス・シモカッタの7世紀前半に書かれたとみられる突厥による柔然滅亡(552年)関連の記事にタウガス (Taugas) との記載があり、これも同系統の呼称と思われる。記事が書かれた時期は隋末 - 唐初期と思われ、柔然の滅亡は西魏から北周、東魏から北斉への禅譲と同時期となる。 江戸時代以前の日本の人々は、しばしば遣唐使を通じて長く交渉を持った唐の国号をもって中国を呼んだ。日本の古語では、外国を意味する「から」の音を「唐」の字にあてる例も多い。中国を「唐土(もろこし)」と呼称したり、日本に来航する中国商人は「唐人(からびと、とうじん)」と呼ばれ、文語の中国語を「漢文」というのに対して口語の中国語は「唐語(からことば)」と呼ばれた。また、かつて東南アジア(台湾含む)などの華人も祖国を「唐山」と呼んだ。 11世紀頃に中国の北辺を支配したキタイ(契丹)人の遼王朝から、12世紀から13世紀の、モンゴル高原のモンゴル人は、中国をキタイと呼び、モンゴル帝国による征服活動の結果として、内陸ユーラシアのテュルク語や東スラヴ語などでは、中国のことをキタイに基づく呼称で呼ぶようになった。
「秦」に由来する呼称
「漢」に由来する呼称
「拓跋」に由来する呼称
「唐」に由来する呼称
「契丹」に由来する呼称
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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